神戸製鋼・真紅の挫折。「V8はなぜ成らなかったか」 | ラグビージャパン365

神戸製鋼・真紅の挫折。「V8はなぜ成らなかったか」

2011/12/30

文●永田洋光


神戸製鋼V7は、時代の転換点と見事に重なっていた。

達成直後の1995年1月17日未明には、阪神・淡路大震災が起こり、V7の母胎である灘浜グラウンドは液状化に見舞われて、地面に乗せた足が不気味に芝生のなかにめり込んだ。取材に行くたびに最初に通された本社・広報部の応接室は、部屋全体が押しつぶされ、窓から机が飛び出していた。自分がそこにいた可能性もあった部屋だ。

「日にちが違えば、自分が死んでもおかしくなかったんだ」

そのとき背中を這い上がった悪寒は今でも忘れられない。さらに3月20日には地下鉄サリン事件が起こり、多数の犠牲者や負傷者が出た。ラグビー日本代表が、南アフリカで開催されたW杯で、ニュージーランドに17―145と大敗したのも、この年の6月4日のことだった。そうした数々の困難に見舞われながらも、それでも神戸製鋼がV8を達成するのではないか――と見られていたのが、95―96年度のシーズンだった。

だから、神戸製鋼V8をテーマに取材を始めたときは、これまで以上のドラマを目撃し、それを文字に起こせるのではないかという期待と気負いがあった。しかし、残念ながら、それを上回るドラマが準々決勝で起こってしまったのである。

「神戸製鋼、引き分けでトライ数差で敗退!」

現実はこのように想像を軽々と超えるのだ。
そんなリアルな驚きと戸惑いを、行間から汲んでいただければ幸いである。

永田洋光

 

さあ、時代の転換点へタイムトラベル。

 


1989年1月10日、秩父宮ラグビー場で行われた第41回全国社会人大会決勝戦で、東芝府中を23-9と破って堰を切った神戸製鋼ラグビー部の“真紅の奔流”は、それから丸7年の歳月を経た96年1月28日に、準々決勝でサントリーに20-20(トライ数1-2)と引き分けてせき止められた。

平尾誠二がキャプテンに就任し、チームを“悲願”の初優勝へと導いた88年度のシーズンからこの8シーズンで、国内の公式戦の通算成績は、90勝3敗2分。平成という元号の下で王座を一度も明け渡すことなく無敵を誇ってきた神戸製鋼は、次なる王者の顔を見ることもなく静かにその座を去ったのである。

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