「石見智翠館―強き者へ挑んだ物語」STORY1・2011年創部。既に現在につながるチームカルチャーは芽生えていた | ラグビージャパン365

「石見智翠館―強き者へ挑んだ物語」STORY1・2011年創部。既に現在につながるチームカルチャーは芽生えていた

2018/10/18

文●大友信彦


石見智翠館女子ラグビー部の試合を初めて見たのは、2012年4月に熊谷ラグビー場で開催された第1回全国高校女子セブンズでのことだった。

当時の女子ラグビー、特にジュニアの分野は、鈴木彩香や山口真理恵、鈴木陽子、鈴木実沙紀らを輩出した神奈川県が先進地だった。実際、この大会で優勝を飾ったのは「YRA/関東クラブ選抜」(主将は現アルカス熊谷の公家明日香)であり、準優勝は「市立船橋/関東選抜」(主将は現・アルカス熊谷の門脇桃子)だった。

※YRAとは横浜ラグビーアカデミーの略。

2012年・郷里を離れてまでラグビーに懸けようという思いが反骨の炎と燃えあがり、常勝・神奈川を破るまで

この大会に、石見智翠館は「石見智翠館/中国・四国選抜」として出場(山口・新南陽高2年生、後に日体大主将、横浜TKMへと進む光月三智もチームメートだった)。プール戦では本間美月主将(現・アルカス熊谷)率いる名古屋レディースに敗れ、プール2位によるプレート戦に回り、そこでは「福岡RFC」と「南九州女子選抜」を破り、プレート優勝を飾る。プレートのMVPに選ばれたのが、当時2年生の福島わさなだった。

このときの智翠館の印象は「低いプレーをするな」だった。
上位を占めた関東勢は、タグラグビー出身の選手も多く、スペースを使って攻める感覚に優れていた。そんな中で、智翠館は、ひたむきに体をぶつけ、倒れては素早く起き上がり、走り回り、人数勝負で勝つ――そんな泥臭い、ひたむきなラグビーで勝負する姿勢で異彩を放っていた。

石見智翠館女子ラグビー部は、磯谷監督のもと、前年に産声をあげたばかりだったが、今になって思えば、創部当初から現在に連なるチームカルチャーは芽生えていたのだ(当時は白パンツだった)。

2012年選抜大会より

2012年選抜大会より


そのチームカルチャーは、翌年の選抜で果実をつける。
予選Ⅲ組で北海道・京都を47−0、SCIXを36−14で破った智翠館は、決勝リーグでディフェンディングチャンピオンの「YRA中心神奈川チーム」と対戦。

試合はYRAが、中3ですでにU18日本代表入りしていた小出深冬の独走トライなど3連続トライで15−0とリード。智翠館は2トライ2ゴールで14−15まで追い上げるが、直後にYRAの小出深冬にこの試合2度目の独走トライを許してしまう。しかし、このとき小出に貼り付いて内側を抑え、回り込ませず、コンバージョンを失敗させたのが、2年生の青木蘭だった。

その青木が直後の7分、左サイドを駆け抜け、内側から追うタックラーをタッチラインギリギリでかわし、真ん中へ。トライ数では3−4と劣勢だったが、キャプテンの福島わさなが3コンバージョンをすべて成功して、智翠館は21−20と1点差の逆転勝ちで、常勝・神奈川を破る。

2013年の選抜大会、神奈川戦の終了直前、トライへ疾走する青木蘭

2013年の選抜大会、神奈川戦の終了直前、トライへ疾走する青木蘭


YRA戦で劇的なトライをあげた青木は、実は神奈川県茅ヶ崎市生まれ。茅ヶ崎ラグビースクールでラグビーを始めたが、「神奈川には女子ラグビー部のある高校がなかった」と、親元を離れて遠路・島根へ国内留学し、全国の舞台で神奈川を破った。

「相手は知ってる子ばかりだったし、絶対に負けたくなかった」と青木は言った。

智翠館の部員はほぼ全員が親元を離れての寮住まい。共同生活で培った濃密なコミュニケーション力と、郷里を離れてまでラグビーに懸けようという思いが反骨の炎と燃えあがり、常勝・神奈川を破った瞬間だった。

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