明大新監督・丹羽政彦「いつまでも前へ」 | ラグビージャパン365

明大新監督・丹羽政彦「いつまでも前へ」

2013/01/30

文●大友信彦


  

ニワさん、Who?
おそらく、少なくない人がそう思ったのではないか。
1月25日、明大ラグビー部の新監督に内定したと名前が上がったのは、今季で退任すると見られる吉田義人監督と同期で、逆サイドのWTBだった丹羽政彦さんのことだ。
正式な就任発表は近く行われる見込みだが、丹羽さんには日本代表や高校日本代表などに選ばれた経歴はなく、トップリーグや東日本社会人リーグなどトップチームのコーチだったわけでもない丹羽さんの素顔は、これまでほとんどメディアに登場しなかった。
しかし、あるのである。
2000年春、『ラグビーマガジン』春恒例の「人物往来」シリーズで、清水建設ラグビー部での現役を退いた丹羽さんのインタビューを掲載。日の当たらない関東社会人リーグ、プレー環境に制約のある清水建設ラグビー部で最大限の結果を出すために、どんな取り組みを重ねたのか、そもそもどんなプレーヤーだったのかを紹介している。
人知れず努力を重ねていた、後の明大監督に名の上がる職人肌のユーティリティバックスの現役時代に、タイムトラベル!


 

とにかく走る。陸上部か?と言われるくらい走ってました。

吉田義人が率いた1990年度の明大で、主将と逆サイドの右WTBを張った丹羽政彦は、北海道北部の日本海側にある羽幌(はぼろ)高校出身。生家のある苫前(とままえ)町は、大正初期には開拓農家がヒグマに襲われ、8人が死亡する大惨事の起きた町としても知られる。北緯44度。人口およそ4000人。

そんな町に育った丹羽が上京し、明大の門を叩いたのは、高校2年のときに明大の北見合宿を見学に行き、練習マッチに駆り出されたことが始まりだった。SOで出場した高校2年の丹羽少年は「バッキングアップのディフェンスで大学生のFBを4〜5回止めて」試合後、北島監督から「明治に来ないか」と声を掛けられた。かくして職人顔の好青年は、北国から八幡山へとねぐらを移したのだ。

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