チャレンジャー2021 桑井亜乃 (アルカス熊谷) | ラグビージャパン365

チャレンジャー2021 桑井亜乃 (アルカス熊谷)

2021/06/11

文●大友信彦


亜乃さんの瞳は少し赤くにじんでいた。

「最後までオリンピックを目指したかったから……それに、太陽生命シリーズが初めて熊谷で開催される大会だし、地元でずっと応援してくれてた人たちの前でプレーしたかったんです」

太陽生命シリーズ1年目、2014年横浜大会で

太陽生命シリーズ1年目、2014年横浜大会で

亜乃さん――と呼ばせてもらう――こと桑井亜乃は北海道の東、帯広市に隣接する幕別町に生まれた。帯広農高から中京大までは陸上競技の投擲(円盤投げ)で五輪を目指していたが、大学卒業を機にラグビーに転向。投擲で鍛えた強靱な体幹は海外の重量級選手のタックルを受けてもぶれず、豪快なストライドでピッチを駈ける姿はチームに安心感を与え、見る者を元気にした。



2014年3月、香港女子セブンズ

2014年3月、香港女子セブンズ

ラグビーのルールを知らなくても、亜乃さんのプレーを見ると楽しくなる。それは亜乃さん自身がラグビーの初心者で、手探りのまま、それでも一生懸命にラグビーに取り組み、なかなかうまくいかないこともポジティブに楽しんでいたからかもしれない。

中京大を卒業し、ラガールセブンを経て立正大大学院に学んでいた2014年4月、アルカス熊谷設立に参加。大学院を卒業後は熊谷の老舗百貨店・八木橋デパートに奉職し、時には売り場に立ち、時にはイベントでモデル役も努め、トップアスリートの生活と両立しながら地域密着でラグビーを続けてきた。

2015年11月、香港で行われたリオ五輪アジア予選で

2015年11月、香港で行われたリオ五輪アジア予選で

2016年リオ五輪への道のりは年間200日にも達したハードな合宿の連続。それが本番ではわずか1勝、12カ国中10位の成績に終わると、多くの選手は「この生活を続けるのは…」と代表生活続行について言葉を濁したが、亜乃さんはいち早く「私は東京を目指す」と明確に言葉にした。

だが、2018年のワールドカップセブンズが終わると、桑井亜乃の名はサクラセブンズ合宿メンバーのリストに見当たらなくなった。コーチングスタッフは若返りを模索していた。ベテランは中村知春がいる。あとはポテンシャルのある若い子を育てよう――そんな思いが透けて見えた。ともにリオ五輪を戦った兼松由香や山口真理恵は現役を退き、富田真紀子や横尾千里はケガで戦列を離れがちになっていた。竹内亜弥は結婚して中嶋と姓を変え、出産を経て現役に復帰したが、コーチに軸足を移していた。世代交代は必然な流れにも見えた。

5月の東京大会で

5月の東京大会で

でも、亜乃さんは退いたりしなかった。
2019年に発表された第1次オリンピックスコッド、トレーニングスコッドには選ばれず、時折合宿に呼ばれるときも肩書きは「トレーニングメンバー」。チームロゴの入ったトレーニングウェアも支給されず、リオを目指していた頃の、繊維の隙間に勝浦の砂のしみこんだ型落ちのアップスーツを着て、ひとまわりも違う若い選手たちと体を当て、走った。

自分が練習台の立場と分かっても、迷わずその役目を引き受けた。東京五輪の延期が決まる直前、2020年2月に行われた熊谷SDS(セブンズ・デベロップメント・スコッド)合宿、コロナ後の2021年12月に行われた同じく熊谷SDS合宿、五輪が目前に迫った2021年3月のSDS合宿。亜乃さんは、高校生もいる若いメンバー構成の合宿で、自分の体をいじめ、若い選手をサポートした。自分がオリンピックスコッドに引き上げられる可能性はどれほど残っているのだろう? そんなことを疑い始めたら、とても取り組めないようなハードなメニューにも、率先して取り組んだ。それが「東京五輪を目指す」と決めた自分のプライドであり、存在証明だから。

「(トップメンバーに)いつ何があるか分からない。いつでも準備はできているよ、というところはみせていたかった。ラグビー人生で後悔したくないですから」
太陽生命シリーズ熊谷大会を戦い終えて、亜乃さんはそう言った。

太陽生命ウィメンズセブンズシリーズにはシリーズ元年の2014年から出場している。女子ラグビーを取り巻く環境の変化は当事者として肌で感じてきた。若い選手たちは小中学生のころからしっかりしたコーチングを受けていて、パスさばきひとつ、ステップひとつとっても、自分たちとは土台が違う。

「今の子はみんな上手い。私たちには覚悟しかなかった」


リオ世代として、ちょっぴり自虐的にそう笑いながら「でも、覚悟はあったよね」と、少し誇らしげな顔もみせた。とてつもない覚悟を決めなければ取り組めないようなタフな合宿(それがトレーニング理論として正しかったかどうかは別だが)を何度も何度も何度も重ね、限界を見て、それを乗り越えたことを、次の世代にも伝えたい。自分たちはどれだけの覚悟で臨んだのかを。そして覚悟だけでは勝てなかったという自戒も込めて。それは自分たち経験者が伝えなければいけないところだと思うから。
そんな思いがあるから、途中で五輪をあきらめることはできない。出し続けることしかできない。コーチが自分を見ているかどうかは関係ない。おそらく、自分が五輪に出られるかどうかも、もはや関係ない。

熊谷大会の前、コンディションは良くなかったという。それでも亜乃さんは「私はいけます」とアルカスの武田達也HCに伝えた。理由は、突き詰めれば単純明快だ。
これが五輪本番なら、私は行くよね。
だったら、今日も行く。



熊谷大会、亜乃さんはアルカスのメンバーに入り、ピッチに立った。走った。当たった。ラグビーをやった。自分が必要とされる喜びがあった。172㎝の長身はアルカスで一番。大会全体でも四国大・中村沙弥の177㎝、自衛隊体育学校・木建初音の174㎝、チャレンジチーム・白子未祐の173㎝に次ぐ高さだ。体幹の強さと機動力、存在感も含め、いまも大黒柱そのものだ。



退けない理由がもうひとつある。リオ五輪のあと「一緒に東京五輪を目指そうよ」と誘った高校時代からの友人・寺田明日香の存在だ。2017年にラグビーに転向した同じ道産子の元ハードル女王は、ラグビー界での2年間の奮闘を経て陸上競技に復帰。10年前に自身が作った日本記録を更新し、さらに塗り替え続け、東京五輪を目指している。
「明日香もラグビーをやったことで、恐怖心もなくなったり、筋力をつけたり、ハードルにもいいことがあったと思う。彼女の頑張りは私にも刺激になってるし、同世代として勇気をもらっています」
そして、ベクトルを自分に向ける。自分がいまできることに向ける。

「これで終わるつもりはないけれど、いつ終わるか分からないことは意識しています。だったら、いつ終わっても悔いがないように、そのときそのときに全力を出す」

つまり、それがどんな大会でも、同じだけの価値、尊さがある。
熊谷大会はきっと、亜乃さんにとって、オリンピックそのものだったのだ。

大友信彦
(おおとものぶひこ)

1962年宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校から早稲田大学第二文学部卒業。1985年からフリーランスのスポーツライターとして『Sports Graphic Number』(文藝春秋)で活動。’87年からは東京中日スポーツのラグビー記事も担当し、ラグビーマガジンなどにも執筆。

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