大西将太郎特別寄稿・平尾さんを悼む | Rugby Japan 365

大西将太郎特別寄稿・平尾さんを悼む

2016/10/21

文●大西将太郎 構成●大友信彦


20日の夜は、林敏之さんが主催したNPO法人ヒーローズの10周年記念イベントに出席していました。会の冒頭で、林さんがスピーチで、神戸製鋼のV1のときのエピソードを紹介してくださいました。

「僕にとって、ラグビーとは、イコール平尾さんでした。」

表彰式で、賞状を受け取るときになって、そのときは平尾さんがキャプテンだったけれど、前の年までキャプテンだった林さんに「この賞状を受け取るのは林さんしかおらんですよ」と言って、背中を押して受け取りに行かせてくれた……というエピソードです。

それを聞きながら、涙がボロボロ流れて止まりませんでした。林さんのお話を聞きながら、28年前、テレビの前でボロボロ泣いていた自分を思い出しました。林さんが顔をくしゃくしゃにして泣きながら賞状を受け取って、仲間の方に向かって賞状を掲げるところを見て、テレビの前で僕も泣いていたんです。当時は10歳だったかな、だけど、当時からそういう話にグッとくるタイプだったんです。ラグビーの良さってそんなところにあるんだなと、子供ながら思ったものです。そのビデオも、もう何百回見たか分かりません。テープが擦り切れたかもしれない。

僕にとって、ラグビーとは、イコール平尾さんでした。

この写真は僕が6歳の時、まだ幼稚園児の時ですね。昔の花園ラグビー場で、ロッカールームの前で並んで待っていて、出てきた平尾さんにサインをお願いしたところです。まだラグビースクールに入る前ですが、ラグビーは好きで、小学生になったらラグビーをすると決めていました。僕くらいの年齢だと、松尾雄治さんはひと時代前だったし、平尾さんは関西の人でしたから。関西のチームが関東のチームをやっつけるというのは、カッコ良くて、憧れました。

平尾さんのプレーは、ビデオで見てずっとマネしていました。ステップの踏み方、パスの出し方……プレーだけではありません。平尾さんは、何を考えてプレーしているんやろ? と考えていた。何を見てプレーしているんやろ? そう思って見ると、平尾さんは視野を広く持ってプレーしているんだなということがよく分かった。

平尾さん自身、感覚を大事にしてプレーしてはったと思うし、その感覚を選手に伝えるのは難しかったと思う。それは自分がコーチの立場になったことで僕も感じていることです。僕自身は、「平尾さんは何を考えてプレーしているんだろう?」と自分で考えていたから、教わるときも「平尾さんは何を求めてはるんやろ?」と自分から考えるようにしていました。

 

憧れの平尾さんから代表のジャージを受けとった時、本当に感動していた。

初めて日本代表に選ばれたのは同志社大4年の2000年です。当時は平尾さんが日本代表の監督だったので、「平尾さんが監督のときに選ばれたい」ということが僕のモチベーションになっていました。当時のパシフィックリム選手権で、最初は秩父宮のフィジー戦で途中出場でキャップをいただいて、次の週が花園のアメリカ戦。大阪のホテルに移動したら、平尾さんの部屋に呼ばれて「次、お前で行くから」と言われたんですが、ホテルで部屋に呼ばれたとき、ノックする手が震えたのを今でも覚えています。

試合の前日、平尾さんからジャージーを受け取ったときも、本当に感動していた。当時の僕は、代表ジャージーの重みとか、テストマッチの重みとかは全然分かっていなくて、単に平尾さんからジャージーをいただいたということが幸せだった。

その年のパシフィックリムでは負けが込んで、秋の欧州遠征で大敗して、平尾さんは辞任することになるのですが……実は、僕はジャパンの秋の遠征を辞退したんです。当時は同志社大のキャプテンをしていて、春に続いて秋もチームを離れることはできなかったんです。期待してくれた平尾さんには申し訳ないことをしたと思っています。

その頃、平尾さんからは「神戸製鋼でやらないか」と誘っていただいていました。2人でゴハンを食べさせていただくことも何度かありました。結局、僕は、平尾さんのもとでいつまでもやっていたら平尾さんを越えられないと思ってワールドへ入って、そのあとはヤマハ発動機、近鉄、豊田自動織機でプレーしたわけですが……時々ふっと「あのときもし神戸に行ってたら、僕のラグビー人生はどうなっていたかな?」と考えることがあります。だけど、平尾さんはその後も「なんで断ったんや?」という感じは微塵も見せないで、気さくに接してくださいました。

 

平尾さんの思いは引継いでいかないといけない

本当に、日本ラグビーのこれからを先導していただかなきゃいけない方でした。日本のサッカーを川淵三郎さんが変えはったように、日本のラグビーを引っ張ってくれはるのは平尾さんだけやと思っていました。これからが平尾さんの時代だと思っていたのに、本当に残念です。2019年のワールドカップ、そしてその先へ向けて、本当に必要な方を失ってしまった。

山口良治先生もテレビのコメントで「順番が違う」と嘆いてらっしゃったそうですが、本当にそうですよね。きっと、天の上で、岡仁詩先生にも「何でオマエこんなに早く来るねん?」と叱られてはるんじゃないでしょうか。

ただ、思いは引き継いでいかないといけない。

僕自身は、平尾さんも岡先生も気に掛けているに違いない、同志社への思いをしっかり受け止めて、同志社が勝てるように全力を尽くしたいと思っています。平尾さんがそうしておられたように、自分で考えて、判断したら、思い切り取り組む。
天から見てくれはる平尾さんに「オマエ何やっとんねん」と叱られないようにしないといけませんね。

 

平尾さん、長い間、ありがとうございました。
心より、ご冥福をお祈りいたします。

 

大西将太郞
(おおにし・しょうたろう)

1978年、大阪府東大阪市生まれ。布施ラグビースクールでラグビーを始め、啓光学園高3年で全国高校大会準優勝。同志社大を経てワールドファイティングブル、ヤマハ発動機ジュビロ、近鉄ライナーズ、豊田自動織機シャトルズでプレーし、トップリーグ(リーグ戦)は通算143試合出場。日本代表には同志社大4年の2000年に初めて選ばれ、2008年サモア戦まで33キャップ。2007年ワールドカップのカナダ戦では終了直前に同点ゴールキックを決め、引き分けながら日本代表のワールドカップ連敗を止めた。2015年度終了後に引退。



 

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