世界の舞台で笛を吹く。大きな目標のひとつが今回、叶った。
桑井亜乃、レフリーとしてワールドシリーズにデビュー。
2023年、香港セブンズのトピックだった。
2年前まで現役選手だった亜乃さん、担当した試合では対戦した選手も何人かいた
一昨年の7月、1年延期された東京五輪の最終メンバーから漏れたあと、競技からの引退とレフリーへの転向を決意。所属するアルカス熊谷の練習や練習試合を吹き、国内の女子7人制大会を吹き、フィジー、英国で武者修行を重ね、熊谷のさくらオーバルフォートでワイルドナイツのアタックディフェンスや、11人制の練習試合を吹き……修行を重ねて、初めて招聘されたワールドシリーズがこの香港大会だった。
「目標はオリンピックで吹くことと言ってますけど、ワールドシリーズだって、選手としてもなかなか来ることはできない場所ですから。まず、この大会を楽しみたい。そして、今まで通りのパフォーマンスを出す。私がここに来られている意味を考えながら吹かせてもらいました。世界中から選手が集まるように、レフリーも世界のいろんな国の方々が集まってくる。そう簡単にこられる場所じゃないことは分かっているし、レフリーチームのみなさんともいいコミュニケーションを取ってグラウンドのパフォーマンスを出せるように準備したし、いろいろな思いを抱えて、吹かせていただきました」
ほんの2年前まで現役選手だった亜乃さんだけに、担当した試合に出場している選手には、現役時代に対戦した選手も何人かいた。
「そんなに言葉を交わす時間はなかったけど、試合の前に目が合って『あなたなの?』って目で言ってきた感じがしたり、試合中にペナルティーを吹いたりすると『見てた?』『やっぱりダメよね』とか、不満はあるだろうけど納得してくれる感じがして、トップの選手は成熟しているなあと思いました。日本だと、私自身がそうだったけど、反則を取られると『え~?』みたいな言い方をしちゃう選手がけっこういる。世界のトップ選手は、反則を取られても、不満があってもレフリーとコミュニケーションを取ろうとする。そこはすごいなあと思ったし、そこもコントロールできるようにならなきゃいけないなと思いました」
ラグビーのレフリーはアスリートだ。とりわけセブンズでは、常に走り回ることが求められ、瞬時に攻守が入れ替わる。初レフリーを務めたDAY2の香港-スペインでは、相手のパスをインターセプトしたスペイン選手がハーフウェイ付近から独走。レフリーは逆を突かれた形だが、亜乃さんは瞬時に反応。約50mの独走にぴったり張りついて走り、グラウンディングに遅れることなく確認してトライの笛を吹いた――。
さすがでしたね、と言うと、亜乃さんは少し微笑んだ。
「スプリントは、はい(笑)」
ことさらに誇らないのはトップレフリーを目指すプライドか。トップレベルでのプレー経験と走力はレフリーとしての自分の武器と認識しているが、それをことさらに主張はしない。望むのは、レフリーとして、トータルのパフォーマンスで評価されること。
「私がここに来られているのは、いろいろな方の助けがあったからです。私の力だけで来られたわけじゃない。だから、実際のパフォーマンスで『やっぱりここに来ただけのことはあるね』といってもらえるようなものを見せなきゃおけないんです」
それは現役時代から亜乃さんのモチベーションになっていた部分だ。大学卒業後に陸上競技の投擲種目(円盤投げ)から転向。五輪種目に採用されたのを機に転向した選手には、歓迎する声と同じくらいに、よそ者扱いする視線が感じられた。
「どんなことを言われても、実力で相手を『YES』と言わせるようなパフォーマンスをみせなきゃいけない。それは選手の時も感じていたことです。だから、試合で自分のパフォーマンスを見せなきゃいけない」
その意味で、初めて吹いた試合のパフォーマンスは「合格」だったのだろう。デビュー戦のあと、レフリーチームのトップとのレビューでは「おめでとう! この大会ではもう1試合吹いてもらうよ」と言われたそうだ。
そして迎えたDAY3。亜乃さんが任されたのは女子の5/6位決定戦。フランスとカナダとの一戦だった。
「昨日の試合(スペイン対香港)よりも難しい試合でした。昨日の試合は香港が出ていたので、判定によってはブーイングもあったけれど、判定は難しくなかった。でもきょうの試合はお互いに力はあるし、ギリギリのところでせめぎ合って、ヒートアップしていたし。それは選手のときから自分もそうだったし、予想はしていたけれど。予想以上でした。勉強になったと言ったら申し訳ないけれど、自分にとっては良い経験になりました」
女性レフリーの道は広くはない。日本国内の女子の大会ではなるべく女性レフリーに吹かせようという主催者・レフリー部門の意向が覗くケースが多い。しかし、今回の香港セブンズでは、レフリーチームには7人が集まったが、うち女性レフリーは亜乃さんを含めて2人だけだった。
男子のトップグレード(国際試合)を吹くのは試合の強度からいって現状では男性レフリーに限られている。だが女性レフリーは女子の試合を吹こうとしても、男性レフリーとの競争にさらされる。女性レフリーがトップレベルの試合でレフリーを担当させてもらえる可能性は、ざっくり言って男性レフリーの3分の1という狭き門になる。そもそも女性レフリーは母数そのものが少ない。
まして、レフリーキャリアを積み始めて日の浅い亜乃さんにとって、超えなければいけないハードル、見てもらわなければならないパフォーマンス―つまり自分を信用してもらうための実績作り―は多い。それと反比例して、レフリーを始めたときに目標に据えた2024年パリ五輪は目の前に迫っている。
「でも、簡単じゃないのは分かった上でチャレンジしたんですから」と亜乃さんは笑った。少ないチャンスに自分の武器を、能力をアピールできれば、パリ五輪を吹くレフリーのワイダースコッドに入れてもらえる可能性だってゼロではないだろう。そうしたら、セブンズのゲームと同じで何が起こるか分からない。可能性に備えて準備をするだけだ。
次のチャンスは4月。20-22日と28-30日の2度にわたり、南アフリカのステレンボシュで、来季女子ワールドシリーズのコア昇格チームを決めるチャレンジャーシリーズが行われる。亜乃さんは、そこに派遣されることが決まっている。そこでどれだけの評価を得るチャンスがあるのかどうか、パリ五輪の候補とみてもらえているのかどうか、確証はない。だけど、確証がない中でチャレンジすることにはサクラセブンズで、もっといえばラグビーに転向したときから慣れている。
困難な目標へのチャレンジを楽しめるのが亜乃さんなのだ。
北海道・幕別から出発。名古屋、熊谷、リオデジャネイロを経由。香港で給油した亜乃さんのチャレンジは南アフリカへ続く。その目には、パリへの針路図も、きっと見えている。