8月31日、桑井亜乃は、ラグビー選手として現役を引退すること、八木橋百貨店を退社することをSNSで発表した。ツイッター、フェイスブック、インスタグラム……どの投稿にもたくさんの「いいね!」がつき、労いと引退を惜しむコメントが書き込まれた。
こんなにたくさんの方に応援していただいていたんだなと改めて思った
「今まで、本当にたくさんの方に応援して頂いていたし、本当は全員にありがとうの思いを伝えたいけれど、伝えようとしても伝えきれない人もいる。それを考えたときに、SNSを使って発信するのが一番いいかなと思ったんです。八木橋でお世話になった方も、社員の方もパートのお姉さま方も、もう辞められた方もいらっしゃる。でも、本当にたくさんの方からコメントをいただいて……SNSがあって良かったな、発信して良かったなと思いました。長いこと連絡をとっていなかった知人とか、ファンの方からも『あなたのおかげでラグビーを知ることができました』というメッセージを頂いたり。こんなにたくさんの方に応援して頂いていたんだなと改めて思いました。感謝の一言ですね」
引退発表。だがそこに寄せられたコメントには、次の挑戦を祝福する前向きなメッセージが多かった。それは、亜乃さんが引退と同時に次の目標を発信していたからだ。
「次はレフリーでパリ五輪を目指します。
今のところ、フリーで活動する予定です。
決して簡単な道のりではありませんが、また新しい目標に向かって頑張ります。
選手として五輪に出させてもらったので、
次はレフリーで五輪に!!!
また、コメンテーターやレポーターなど色んなことにチャレンジしていきたいなと思います。」
亜乃さんがレフリーに興味を持ったのは、東京五輪の延期が決まる前の昨年3月だった。現役生活は東京五輪を区切りにしようと決めていた亜乃さんに、レフリー育成プログラムに参加してみないかと打診があった。女子ラグビーが発展して行くには女性レフリーも増えていく必要がある。そこを目指さないか?レフリーとしてパリ五輪を目指さないか?
説明を聞く過程で、レフリーのみなさんは選手の自分たちが想像していないほど、準備レビューに時間と労力を注いでいることも知った。
それを知ると、それまでの自分がちょっと恥ずかしくなった。
「私はけっこう言う方だったんですよ。レフリーに相手のことを『手を使ってる!』『オフサイドだよ!』とか。レフリーの方には嫌われていたと思います(苦笑)」
少しだけかばうと、大学を卒業してからラグビーを始めた亜乃さんは、素人だった分、真面目にルールを勉強した。だがラグビーのプレーの多くは、ルールブックに描かれた絵のようには行われていない。多くのプレーはグレーゾーンで行われる。プレーに(大きく)影響しない軽微な反則はいちいち吹かれない。子どもの頃からラグビーの世界で育ってきた選手たちには気にならないことも、足先がわずかでもサークルから出ればファウルで失格になる陸上投擲(とうてき)で育ってきた亜乃さんには引っかかったのだ。
それにしても、これからレフリーを始める「素人」が、「レフリーでパリ五輪を目指す」とは、ずいぶん強気というか、大胆不敵な目標にも聞こえる。だがそこには、亜乃さんらしい覚悟があった。亜乃さんは、「レフリーをやらないか」と誘った大槻卓レフリー(リオ五輪に派遣された)に質問した。
「やるんだったら本気でやりたいし、目標を決めて、そこに向かっていきたいです。あと3年、パリ五輪を本当に目指せますか?」
返ってきた答えは「目指せないこともない、僕はできると思う!」だった。大槻さんは実例として、自分と一緒にリオ五輪に派遣された川﨑桜子レフリーの名をあげた。川﨑さんが本格的にレフリーを始めたのは2014年からだったから、キャリア3年目で五輪の笛を吹いたわけだ。亜乃さんにはプレーヤーとして、世界の舞台で戦ってきたキャリアがある。トップレベルの試合の構造、ブレイクダウンやセットプレーの実際の強度を知り抜いているアドバンテージもある。そして、世界ではトップレベルを経験した選手がレフリーに転身する動きが始まっている。日本もその流れに乗り遅れたくない。
逆に言えば、ここで乗ればトップランナーにもなれる。世界の舞台で吹くには語学力も必要だが、これも裏返せば海外留学のチャンスも出てくるということだ。今まではチームプレーで世界を目指したけれど、今度は自分自身、個人で世界を目指せる。亜乃さんは、面白そうだな、と思った。五輪を吹けるのは男女あわせて世界のトップの20人。そこに選ばれたらすごいじゃない!
そして亜乃さんは、もうレフリーキャリアをスタートさせていた。
7月9、10日に立正大で行われた大学女子交流大会カレッジセブンズで、アシスタントレフリーとしてデビューしていたのだ。初日の試合前にC級レフリーの講義を受け(受講者は1人の臨時講義だった)、2日目に1試合の見習いを経てアシスタントレフリーとして実戦デビュー。5試合ほどで旗を手にタッチライン沿いを走った。
翌週の男子の全国高校セブンズでは、実際の審判ではなく記録係など大会運営の裏方仕事を勉強した。
「でも、正直言うと、あのときはまだ迷っていました。国体もあるはずだったし、国体を最後にしようかなという思いもあった。でも、アルカスで太陽生命4大会に出場して、やりきった感もだんだん強くなって、国体まで同じ熱量でラグビーをやれるのかどうか微妙な気持ちになってきたんです」
東京五輪が始まったのも大きかった。現役でプレーするのは東京五輪までと決めてタフなトレーニングに取り組んできた。代表スコッドに入っていなくても、何かアクシデントがあって呼ばれたときのために、準備していなければ。その思いで、ケガをしていてもフィットネスに取り組んできた。だが東京五輪が開幕し、その理由がなくなった。次の目標が必要になった。次は何を目指せばいいかな? そう自問自答したとき、頭にくっきりと浮かび上がったのが「やっぱりラグビーが好き」という思いだった。
ラグビーを始めたきっかけは、陸上競技をしていた中京大2年のとき、授業でラグビーを経験してから。新しく五輪種目に決まったことも知らされ、これから強化が始まるらしいよ、と聞かされた。中京大を卒業すると、本格的にラグビーを始めた。
「でも実際に転向してみたら、女子ラグビーってずっと前から存在してたんですね。子どもの頃からラグビーをしてきた経験者がたくさんいて、私は走ったり投げたりする体力はあっても、寝て起きて、走って止まって、そんなことを繰り返すような体力は培ってない。最初の頃は、どうやったらみんなに追いつけるか、そればかり考えてました」
最初の1年はラガールセブンを運営する親会社・購買戦略研究所に在籍。営業の仕事をしながらトレーニングを重ねた。自分で『ラグビーマガジン』を買って読み、トレーニングや戦術、技術も学んだ。1年後、よりトレーニングに集中できる環境を求めて立正大の大学院へ。同時に日本代表候補入り。年間280日を超える合宿の繰り返し、プライベートのないラグビー漬けの生活が始まった。2014年にはアルカス熊谷が設立され参加。2015年には大学院を卒業し、熊谷市の老舗デパート・八木橋百貨店に奉職。アスリート社員として職場の全面サポートを受けながら、ときには売り場に立ち、イベントではモデル役も務めながらラグビーと仕事の両立を図った。
そしてたどり着いたリオ五輪。「目標は金メダル」と公言して臨んだ五輪の戦いは無惨だった。最終順位は10位。亜乃さんはブラジル戦で日本代表の五輪初トライを決めたが、世界の壁の厚さを痛感する戦いだった。
五輪が終わると、ともにリオを目指してきた選手たちは、引退し、あるいはケガの治療などを理由に代表を離れる選手が多かった。だが亜乃さんはいち早く「私は4年後の東京を目指します」と公言した。
経験が足りない。技術が足りない。知識が足りない。体力が足りない。リオで突きつけられたそんな現実は、言い換えればすべて伸びしろだった。そこを伸ばすには、休む時間なんてない。当時26歳、ラグビー歴は4年。エンジンも調子よく回っている。ガソリンも持ちそうだ。亜乃さんはピットインせずに走り続けることを選択した。
だが、本当は休養が必要だったのかもしれない。
2017年の初め頃から、練習や試合の前に体調が崩れる症状が現れるようになった。吐き気がする。ヘルニアの症状が出る。アキレス腱に痛みが出る。どれも、靱帯断裂のような決定的なケガではなかったから練習も試合もできなくはなかったが、不完全な状態でプレーしてもパフォーマンスは上がらない。
それでも、リオを経験したベテランがケガや引退でサクラセブンズを離れていた状態では、自分はここにいるべきだと自らに鞭を入れた。ストレスに襲われ、PRP(多血小板血漿)治療を試み、下半身の負担を減らすために減量しようと食生活の改善に着手。栄養学も学び、アスリートフードマイスターの資格も取得した。そんなことも試みながらピッチに立ち続け、合宿にも休まず向かった。
休むのが怖かったこともある。ケガをしたときも、弱ったことを周りに知られたくなかったこともある。それは個人競技の陸上競技で身にしみこんだ勝負根性だったかもしれない。理由はどうあれ、そこからの時間は、リオまでの、迷いなく突き進んだ時間とは違っていた。
「そのあとは、挫折が多かったですね。遠征に行っても、最終登録メンバーに入れず、現地でバックアップに回ることが何度かありました。そんなときは、悔しい気持ちを押し殺して、いかにして、メンバーに気を遣わせないように見せかけるか考えましたね(笑)。トレーニングはみんなが起きてこない早朝にやるとか、大会に出る出ないは関係なく、若い子の教育係みたいなこともしたし」
誰かがお姉さん役を果たさなければ。とはいえ、それに慣れることはできなかった。特に忘れられないのは2018年のワールドカップセブンズサンフランシスコ大会だ。この大会に向けて、フィットネスを高めるために体脂肪率も落とした。練習のパフォーマンスも出せていた手応えはあった。陰で努力するだけでは見てもらえない。遠慮しすぎない程度に、課題克服に取り組んでいる自分の努力も見てもらえるようさりげないアピールも試みた。だが届かなかった。開幕前日に行われたジャージープレゼンテーションで、亜乃さんの名は呼ばれなかった。
「あのときは苦しかったです。あのときは遠征が13人で、外れたのは私だけ。悔しさをはき出し合える相手もいなかった」
そのとき、亜乃さんの気持ちに寄り添ってくれたのが、当時スポットコーチとして帯同していた、現サクラフィフティーンHCのレスリー・マッケンジーだった。ちょっと一緒に来て。そう声をかけられてついていくと、レスリーは亜乃さんに「あなたが頑張っていることはわかってるよ」と言ってくれた。とりつくろうような慰めでない。
それはひとつひとつの指摘でわかった。練習でのパフォーマンスだけではない。下の子への心遣い。ウィットを交えた言葉使いと気遣い。栄養管理を含めた自己管理に取り組む姿勢。自分が外れたときもチームファーストに振る舞う態度……なんで? と思うくらいレスリーは自分のことを見ていてくれた。
そこまで言ってレスリーは「今日はたべていいわよ」と、アイスクリーム屋さんに連れて行ってくれたのだ。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら食べたアイスの味は忘れられない。レスリーも一緒に号泣してくれた。
「忘れられない出来事です」と亜乃さんは言う。
そんなこともあったが、いや、だからこそ、なのかもしれない。自分が活躍できる機会が減るのに反比例して、亜乃さんはますますラグビーが好きになっていくのだ。亜乃さんは言った。
「私より、もっと大変な人がいたし」
亜乃さんに勇気を与え、言い訳を許さずにいたのは、アルカスのチームメイトでもあり転向組の仲間でもあった中村知春の存在だ。
「あの人こそ、いろいろケガしても、休まずにやってきたんです。ホントに、ケガをしていても、何もなかったかのように合宿にきて、ハードな練習をやっていたから」
もう、見習うしかない。そして、やっぱり負けたくない。やるしかない。
最終的に誰が、どんな評価を下すかは自分ではコントロールできない。自分でできることは、やり続けることだけだ。その境地は、次の世代にも伝わった。
引退を発表したあと、亜乃さんのもとにはたくさんのサクラセブンズ仲間からメッセージが届いた。その中には、亜乃さんとともにバックアップに回った経験を持つ選手や、落ち込んでいたときに亜乃さんからハッパをかけられた若手もいた。自分が重ねてきた経験が、次の世代にも何かヒントになれたら、それもよかったのかなと思う。
そして、自分は次のステージを目指す。
亜乃さんは、現役引退と同時に、6年半勤めた八木橋百貨店を退職した。働きながらレフリー活動をするのも不可能ではないかもしれない。だが、3年後のパリ五輪を目標にするなら、可能な限りの時間をレフリー活動、ラグビー活動に向けるべきだと思った。自分よりも経験値でリードしている女性レフリーも増えている。パリ五輪でレフリーを務めようとするなら彼女たちと争い、海外経験も重ね、レフリーの実力で上回らなければならない。それを目指すためには、サラリーマンをしながらではとても追いつけない。フルタイムで挑むのが最低限の礼儀だと亜乃さんは思ったのだ。
もちろん、1日24時間すべてをレフリー活動に費やせるわけではない。それでも、ピッチ外の時間もなるべくレフリングの勉強につなげたい。自分の勉強のためにも、同時に女子ラグビーの普及のためにも、コメンテーターやレポーター、メディアの仕事もやってみたいと思っている。違う角度からラグビーを見ることは、きっとレフリングの勉強になると思うから。
実践も始めている。8月末に練習を再開したアルカスのアタック&ディフェンスやホールドゲームではレフリー役を務めている。サクラセブンズで一緒にプレーした仲間のいるチームから『練習試合を吹いてくれる?』の依頼も届いている。今冬、順調にB級の資格を取れれば、海外派遣してもらうことも可能になる。来年は太陽生命シリーズを吹かせてもらい、秋にはアジアシリーズで国際セブンズにデビューを目指す。ワールドシリーズを目指しながら、ワールドシリーズ以外の招待大会などにも、許されるなら派遣してもらいたい。できるなら海外に腰を据える留学も経験したい。
2024年パリ五輪のレフリー。その夢にどれほどの可能性があるのか、リアリティがあるのか、それは全然分からないけれど、目指すことに決めた。決めたなら、そこに向かって突っ走るだけ。足りないものを数え上げたらキリがない。でも、リオを目指した頃のハードワーク、東京を目指しながら苦しんだ時期に自分と向き合った時間。それらは間違いなく自分のアドバンテージであり、宝物だ。
たくさんの仲間と重ねてきた時間を、これ以上できないほど自分を追い込んできた時間を胸に。
桑井亜乃。新しい挑戦が始まった。
大友信彦 (おおとものぶひこ) 1962年宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校から早稲田大学第二文学部卒業。1985年からフリーランスのスポーツライターとして『Sports Graphic Number』(文藝春秋)で活動。’87年からは東京中日スポーツのラグビー記事も担当し、ラグビーマガジンなどにも執筆。 プロフィールページへ |