藤田慶和のヒザから、見慣れた黒いサポーターが消えている。
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東京セブンズでの藤田。膝のサポーターは消えていた。
「いつか外さなきゃいけないわけですから、15人制のシーズンがおわってセブンズになったのを機に、外しました」
香港セブンズ2日目、決勝トーナメント準々決勝のチュニジア戦を終えた藤田に聞くと、藤田はあっさりと答えた。藤田の左膝は、2年前の5月25日、早大で初めて出場した試合となった同志社大との春の定期戦で痛めたところだ。
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香港セブンズ2日目、クック諸島戦。ぬかるんだグラウンドでも表情には自信が満ちあふれていた。
]東福岡高では国内無敗で3連覇を達成し、2011年11月に7人制で、2012年5月に15人制で、日本代表の最年少デビュー記録を次々に塗り替え、7人制でも15人制でもトライを量産していた日本ラグビー界の希望の星は、スプリンターの命とも言われる前十時靱帯断裂という大けがを負った。
松葉杖を突き、半年以上にわたってリハビリに専念した。
2012年3月、早大での公式戦には復帰しないままジュニアジャパンに選出され、オーストラリアとNZで開かれたパシフィックラグビーカップに参加。帰国すると、指揮官エディー・ジョーンズから15人制日本代表に引き上げられ、タフなS&Cトレーニングを課されながら、肉体強化に励み、ウェールズ撃破の一員となり、11月のオールブラックス戦でもジャパンに名を連ねた。