大野均、東芝を「勇退」。これまで見せてくれた数々のパフォーマンスに感謝 | ラグビージャパン365

大野均、東芝を「勇退」。これまで見せてくれた数々のパフォーマンスに感謝

2020/05/18

文●大友信彦


キンちゃん、こと大野均が東芝のジャージーを脱ぐ。
5月18日、東芝ブレイブルーパスは、2019年度の「勇退選手」6人を発表。そのリストの一番上に、大野均の名前があった。東芝というチームは、特定の選手のことをあまりクローズアップしたがらない。プレスリリースには選手のコメントもなかった。唯一あったトッド・ブラックアダーHCのコメントも、あえて、と形容したくなるような、フラットなコメントだった。

「今シーズンでチームを離れる選手達には、これまでのチームへの貢献に感謝するとともに、今後の挑戦に対しての幸運を願っています。またここまでのシーズン対して、選手のご家族の協力や貢献に対しても心から感謝いたします。これからも東芝ブレイブルーパスの一員です。この経験を糧に誇りをもって歩んでいってほしいと思います。長い間、本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございます。」

エアロバイクで息をあげる。いつ出番が来ても行けるよう準備する

エアロバイクで息をあげる。いつ出番が来ても行けるよう準備する

だが、その簡潔な言葉がなおさら、1行目に書かれている名前の特別な重みを際立たせていた気がする。他の5人の在籍期間が10年、9年、9年、4年、1年…と並んでいる中で、一番上にいる名前には「19年間」と記されているのだ。生まれたばかりの赤ん坊が成人しようとするほどの、かくも長い時間、大野均は東芝の看板プレーヤーであり続けた。

福島県郡山市で生まれた。中学高校では野球部の補欠。野球のボールはきっと、大野という器には小さすぎたのだろう。地元の日大工学部に入ると192センチの雄大な体軀を見込まれ、熱烈な勧誘を受けてラグビー部へ。まったくの素人だったが、野球では才能の開花を妨げた武骨な肉体が武器になった。愚直に身体を相手にぶつけ、味方を助けるために走り続ける。

ひたむきなプレーで国体の福島県選抜に選ばれ、そのコーチが筑波大OBだった縁から東芝府中(現・東芝)の薫田真広監督との縁がつながり、練習参加、かっこよく言えばトライアウトを受験し、2001年春、府中の住人となる。大野にとっては最適のタイミングで、最適のチームに入ったといえるだろう。

向井昭吾監督のもと日本選手権3連覇を飾った黄金時代から世代交代期を迎えた東芝は、「親に見せられない練習」と言われたタフで武骨な練習でチーム再建に取り組んでいた。ラグビーに対する予備知識も先入観もなく、求められたプレーを高い強度で何度でも愚直に反復遂行する頑健な身体を持つ純朴な大男は、加入2年目の2002年、東日本社会人リーグ最後のシーズンに社会人デビュー。当初はBKのWTBで出場することも多かった。


そこからの歩みは多くのファンが知るところだ。

192センチの大野が173センチのクボタSH井上の腿に突き刺さる。代名詞の低いタックルはラストゲームでも不変だった

192センチの大野が173センチのクボタSH井上の腿に突き刺さる。代名詞の低いタックルはラストゲームでも不変だった

2003年、トップリーグ元年はFWのロック、フランカーとバックスのウイングを兼任。外国人枠の関係で、NO8で先発したルアタンギ・バツベイ(侍バツベイになる前)に替わってBKのスコット・マクラウドがピッチに入ると、WTBで先発していた大野がFWへ移動する。どのポジションでも求められたことを遂行しきる、忠誠心とマルチな能力で、同年度の日本選手権優勝に貢献した。

東芝では5度のトップリーグ優勝に貢献。2009年度にはトップリーグMVPも獲得。ベストフィフティーンは9回受賞。これは小野澤宏時の8回、堀江翔太の7回を抑え最多だ。トップリーグ設立から18年、ミスタートップリーグと呼ぶにふさわしい存在だった。

日本代表には2004年に初選出。06年のパシフィックネーションズ杯ではキャプテンも務めた。ワールドカップには2007年、2011年、2015年と3大会連続出場。2012年に着任したエディー・ジョーンズHCは、最初の日本代表を編成した際「キンちゃんは2015年の代表には入っていないと思うけど」と発言したが、指揮官の言葉を裏切るようにハードワークを重ね、37歳で3度目のワールドカップ代表の座を勝ち取る。

歴代最多の98キャップ。ジャパニーズロック



エディーHCは朝5時からの3部練習、4部練習というハードメニューをチーム全員に課したが、大野は言った。


「人間って、案外丈夫なんですね」


言葉通り、30代半ばを過ぎてもハードワークとともに実力は着実に伸び続け、37歳で臨んだ3度目のワールドカップでは、世界のラグビー史に刻まれる南アフリカ戦の大アップセットにも貢献した。

2015年ワールドカップの翌年は、設立1年目のサンウルブズに参加。スーパーラグビー史上最年長となる37歳でのデビューを果たす。当初は、ワールドカップ時点で37歳の大野がサンウルブズに加わるとは誰も予想しなかったが、いろいろな選手が様々な事情や理由で参加をためらう中、大野は声がかかった時点で迷わず参加した。求められれば喜んで身体を張る。期待されることを意気に感じ、仲間のために身体を張る男だった。

37歳でスーパーラグビーの舞台へ。試合後、「ちょっとは通用したかな」と謙遜しながら感想を話してくれた

日本代表では、ワールドカップ翌年の2016年、スコットランドとの2戦で98キャップに到達。日本初の100キャップは時間の問題と思われたが…そこから、長年酷使してきた膝の故障が繰り返し襲ってくるようになった。2016年11月のアルゼンチン戦、欧州遠征、17年6月のアイルランド戦……何度も代表合宿に招集されながら、メンバー発表直前になって痛みが再発する。「あと2つ」は遠かった……。


「38歳でサンウルブズとして戦って、来年も戦ってみたいという欲が出てきました。」と2016年シーズンを振り返った

サンウルブズでは39歳になった2017年まで、東芝では2018年度のトップリーグまでプレーした。2019年度はトップリーグカップ全試合に途中出場。プレー時間は短くとも、ひたひたと走ってはラックに頭を突っ込んで足をかいた。相手の膝に肩をぶつけるようにタックルを反復した。ワールドカップの代表には選ばれなかったが、3度のW杯をともに戦った戦友トンプソンルークの選出と活躍をことのほか喜んだ。日本代表が決勝トーナメント進出をかけて臨んだ最後のスコットランド戦の前日には、アポなしで宿舎を激励訪問。差し入れを届けたという(差し入れはもちろん……ファンなら誰もが知る、大野の大好物だった…)。心はいつも日本代表とともにあった。

東芝でのラストゲームとなった昨年8月のクボタ戦。背番号19がピッチに入ると、誰よりも大きな拍手が贈られた

東芝でのラストゲームとなった昨年8月のクボタ戦。背番号19がピッチに入ると、誰よりも大きな拍手が贈られた

そして「勇退」のプレスリリース。
まだやれるはず、やってほしい――そう思っているファンも多いだろう。記者もその気持ちは強い。ピッチに経つ大野均の姿をまた見たい。深く身体を折りたたんで密集から密集へと走る背番号4(か5か。あるいは19や20でも)を見たいと思う。ただし、すべては本人の気持ちと身体が許せばのことだ。

今はただ、これまで熱いプレーの数々を見せてくれたことに感謝したい。万が一、夢の続きが見られる可能性があるならもちろん嬉しいけれど、翼をたたむなら、誰もがその決断を温かく迎えるだろう。22日に行われるリモート会見で、本人はどんな言葉を口にするだろう。

ワールドカップ開催を前に、ラグビーをはじめる子供たちへむけた「はじめてのラグビー」を上梓。本誌の単独インタビューにも真摯に答えてくれた。



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大友信彦
(おおとものぶひこ)

1962年宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校から早稲田大学第二文学部卒業。1985年からフリーランスのスポーツライターとして『Sports Graphic Number』(文藝春秋)で活動。’87年からは東京中日スポーツのラグビー記事も担当し、ラグビーマガジンなどにも執筆。

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