さようなら、ありがとう国立。2019年にまた会いましょう | ラグビージャパン365

さようなら、ありがとう国立。2019年にまた会いましょう

2014/06/07

文●大友信彦


本当に愛されたスタジアムなんだなあ、と心底思った。
誰もが、笑みを浮かべていた。
5月31日、国立競技場さよならイベント。
その1週間前、5月25日に、国立競技場最後のスポーツイベントとして開催されたラグビーワールドカップアジア最終予選の日本vs香港戦。

「日本のスタジアムといえばここ。国立はそういうスタジアム」−−元木由記雄

5月25日のレジェンドマッチ、入場時は笑顔をみせた元木由記雄さんだが、試合が始まると目つきは真剣だった。

5月25日のレジェンドマッチ、入場時は笑顔をみせた元木由記雄さんだが、試合が始まると目つきは真剣だった。

いろいろな形で、国立にさよならとありがとうを伝えるイベントは組まれた。ラグビーでは、新旧日本代表のレジェンドたちが、トップリーグの現役選手たちとともに、ファン代表の選手たちと体をぶつけあったスペシャルマッチが行われ、歴代早明戦を彩った選手たちが年代ごとにぶつかりあった。

日本ラグビーの世界挑戦の先駆けとなった坂田好弘さん、世界最多トライ記録を樹立した大畑大介さん、2人のレジェンドは、国立競技場最後の日の聖火ランナーとして、国立の芝を踏んだ。そこで、ピッチに立った誰もが、笑みを浮かべていたのだ。

「国立に来る、ってことは、それ自体が特別な試合でしたから、いつも自然と気合いが入りました」と言ったのは元木由記雄だ。明大時代に4度の早明戦に出場し、大学選手権に3度優勝し、日本選手権に3度チャレンジし、神戸製鋼に進んでからは4度の日本選手権決勝を、日本代表では8度のテストマッチを戦った。”国立の申し子”といっていいだろう。その元木は、5月25日の香港戦に先立つレジェンドマッチで、最後の国立を駆けた。

「日本のスタジアムといえばここ。国立はそういうスタジアムです。ここでは、そもそも特別な試合しか組まれない。ここに来ると言うことは最高の舞台なんです。僕は大好きでした。グラウンド自体も、フラットでものすごく走りやすい。芝の詰まり具合がいい。試合数も抑えめにしてコンディションを整えているから、いつも芝の状態がいい。そんな最高のスタジアムが、この都心の真ん中にある。こんなところ、世界中見たって中々ないですよ」(元木)

 

「ここの芝生は最高ですよ」--清宮克幸

5月31日の早明OB戦には30代、40代、50代の往年の名選手が集結、ライバル対決を堪能した。

5月31日の早明OB戦には30代、40代、50代の往年の名選手が集結、ライバル対決を堪能した。

「本当に、ここの芝は最高ですよ」と言ったのは清宮克幸だ。

5月31日のさよなら国立、早明OBマッチでは、激戦となった40代マッチで、同点の後半ロスタイムに、これ以上ない”おいしいシチュエーション”で、今泉清のパスを受けてさよならトライを決めた。

「芝がふわふわなんです。芝の中に空気の層がはいっている感じ。本当に、ここではいい時間を過ごさせてもらえた。今、この芝をもらえないかってお願いしているところなんですよ(笑)」

清宮と大学の同期で、現在母校の監督を務める後藤禎和は「大学4年以来ですよ」という国立のピッチでのプレーを経験した感想をこういった。

「楽しかったあ。圧倒的に走りやすい。改めて、毎年ここで試合ができた学生たちが本当に幸せなんだなと感じた。本当に、理屈じゃないんです。OB戦であっても、自分がプレーヤーとしてピッチに立って改めて分かった。ホント、死ぬ前にここで走れて良かった(笑)。僕らはそれを経験させてもらえた者として、生きている間はこれを廃れさせちゃいけないな、と感じました」

特別な試合でだけ踏めるという幸せ。それは、早明戦で毎年踏めるチーム以外の選手の方が、より強く感じるものかもしれない。

「初めて国立に立ったときのことは忘れられません。僕みたいな、言うたら地方でやってきた人間からしたら、ラグビー界の中心に初めて立てたという感覚でした」

と言ったのは、国立最後の日に聖火ランナーの大役を果たした大畑大介だ。はじめて国立競技場のピッチに立ったのは、大阪の東海大仰星高3年のとき、高校東西対抗だった。

「中央の人に自分を見てもらえる初めてのチャンスやと思ったし、そこで自分のパフォーマンスをしっかり見せてやらなあかんなと思いました。トライもひとつ取ったと思います。国立での試合は、ほぼ全試合トライ取ってるんじゃないかな。僕、国立のトライ率は高いと思いますよ。国立ほど走りやすいスタジアムはなかったです」

世界ラグビーの金字塔、テストマッチ通算69トライの世界記録保持者は、16本を国立競技場で決めた。

その極致が、2002年7月6日、中華台北戦だ。大畑は激走に激走を繰り返し、1試合8トライというテストマッチ1試合最多トライの日本記録を達成したのだった。100点以上の大差がついても、大畑は飽くことなく激走を繰り返した。

「このグラウンドに立つと、純粋にワクワクするんです。やっぱりビッグマッチしかできない場所ですから」

そう言うと、大畑は、ピッチに立ったものにしか分からない、ある種、意外な感覚を明かしてくれた。

 

「国立ってめちゃめちゃ狭く感じる。ゴールポスト、ゴールラインが近く感じる。」--大畑大介

聖火ランナーとして登場した坂田さんと大畑さん。サッカーの北澤豪さん、レスリングの吉田沙保里さんの姿も

聖火ランナーとして登場した坂田さんと大畑さん。サッカーの北澤豪さん、レスリングの吉田沙保里さんの姿も

「国立ってめちゃめちゃ狭く感じるんですよ。ゴールポスト、ゴールラインが近く感じる。近いから、スピードにどんどん乗っていく感じがするんです」

その、ピッチに立った者にしか味わえない感覚を、少しだけ垣間見るチャンスが最後にあった。

5月31日、すべてのセレモニーが終わった後で、歴史を閉じる国立競技場のピッチが、一般のファンに開放された。記者も、人並みに紛れて、これまでスタンドから、記者席から、トラックのインタビューエリアから、ゴール裏のカメラマンエリアから、何度見てきたか分からない国立競技場のピッチに足を踏み入れた。

本当に柔らかかった。本当に気持ちよかった。
そして、本当に近いと感じた。
たくさんのファンがピッチに”押し合いへし合い”していた。サッカー日本代表のシャツを着たファンも大勢いて、ピッチは人で溢れていた。

だけど、本当にHポストは近いと感じた。ピッチの中から見ると、国立競技場のHポストは近く見えた。スタンドが(トラックがあるぶんだけ)遠く、緩やかなすり鉢状な分だけ、ピッチ自体はコンパクトに見えるのだろうか。だけど、矛盾しているけれど、客席は近くに感じた。

大畑選手ほどではないが、記者も今まで、それなりに世界のスタジアムを訪れて、ピッチレベルでゴールポストを見てきたから、「国立って狭く感じる」という感覚を、少し共有できた気がした。

国立競技場は、物理的な距離や角度や、そんなデジタルな要素では語り尽くせないもの、おそらくは半世紀以上にわたって繰り返されてきた激闘の積み重ねが、特別な磁場を作っているのだろう。幸せなスタジアムだと思った。

 

日本ラグビー界のリアルレジェンドにさえ、時間を巻き戻してしまう魔力をもつ国立競技場

39年前にトライした場所の芝に触れる坂田さん

39年前にトライした場所の芝に触れる坂田さん

「ここです。ちょうどここです。39年ぶりです」

国立競技場、スコアボードのある北側の左コーナーで、坂田好弘さんは愛おしそうに芝を撫でた。坂田さんが国立の芝に足を踏み入れたのは、自身の引退試合となった第12回日本選手権試合、1975年1月15日以来だという。それは、それまで秩父宮と花園で隔年開催されていた日本選手権が、初めて国立競技場に移された試合だった。近鉄は坂田好弘さんの現役最後の試合。挑んだ早大のキャプテンは石塚武生さんだった。大学と社会人、東と西の名門対決に、国立は60000人の観衆で埋まった。

試合終了直前、自陣ゴール前から早大が攻めたが、ボールはコントロールを失い、こぼれた。

「ちょうどあそこです。あそこで拾って、こう走って、ここにトライしました。近鉄の仲間がみんな『やったな』と祝福に来てくれて、それまでは一度もしたことなかったけど、トライの後にみんなと握手しましたね。嬉しかったなあ」

39年ぶりに触れた左コーナーの芝は、IRB殿堂入りを果たした日本ラグビー界のリアルレジェンドにさえ、時間を巻き戻してしまう魔力を持っていた。

新しい国立競技場は2019年のワールドカップでお披露目される予定だ。

今の設計がそのまま使われるのかどうかは分からない。完成リミットを考えれば、設計見直しの議論にも自ずと限界はあるだろう。だけど、過去のワールドカップでは(今回のブラジルFIFAワールドカップじゃないが)大会開会式が過ぎても競技場の建設が続いているなんてことも珍しくなかった。だから、細かいことを言い出したらキリがないけれども、まだまだ見直しは可能なんじゃないかなと、個人的には思う。

だけど、できることなら愛されるスタジアム、スタジアムを走る人にも、観戦する者にも愛されるという、旧国立競技場が持っていた資質だけは、何とかして引き継いでいってほしいと思った。

ありがとう、コクリツ。
2019年に、また会いましょう。

 

大友信彦
(おおとものぶひこ)

1962年宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校から早稲田大学第二文学部卒業。1985年からフリーランスのスポーツライターとして『Sports Graphic Number』(文藝春秋)で活動。’87年からは東京中日スポーツのラグビー記事も担当し、ラグビーマガジンなどにも執筆。

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