W杯ヒストリー「番狂わせ」が起こるとき。 | ラグビージャパン365

W杯ヒストリー「番狂わせ」が起こるとき。

2012/08/15

文●大友信彦


1987年にW杯が始まる以前、ラグビーの歴史の大半は、IRB(国際ラグビー評議会)創設メンバー8カ国によって築かれてきた。

8カ国とはイングランド、スコットランド、アイルフンド、ウェールズ、フランスの欧州5カ国と、南半球のトライネーションズを構成する南アフリカ、NZ、豪州を指す。ラグビーの正式な国際試合を意味する「テストマッチ」とは、そもそもはこの8カ国間の対戦のみに与えられる特別な言葉だった。

W杯の誕生は、その秩序に変化を促した。

W杯の歴史は、そのまま新興国の挑戦の歴史である。 いわゆる「ビッグ8」に割って入ることは容易ではないが、 老舗を敵に廻した彼らの戦いは、―つの確かな醍醐味なのだ。



第1回大会で、サロンに割って入ったのはフィジーだった。南洋の島のサトウキビ畑で働く農民や軍人、教員、ホテル従業員などで構成された、浅黒い肌を待つ15人は、ポジションごとの役割に縛られずに自由に走り回り、パスをつなぎ、西欧文化圏が育んできたものとは異なるラグビーで世界を驚愕させた。

91年の第2回大会では、西サモア(当時)とカナダが8強入りした。W杯の創設を機にラグビーの国際交流は活発になり、カナダはアルゼンチン、NZとの3国による地域代表・トップクラブの交流戦「CANZマッチ」を発足させていた。それ以前は、毎年多くのテストマッチを戦う伝統国に比べ、他国は継続的な強化が難しかった。日本代表も、各地への遠征や他国の来征、アジア選手権やW杯などの特別な大会に向けて結成されるものであり、監督もその都度決まるものだった。

91年に8強入りしたもうひとつの国、西サモアは、独自のラグビー文化を育てた隣国フィジーとは異なり、NZのクラブでプレーするサモア系選手を集め「ミニ・オールブラックス」と呼ばれるNZスタイルのラグビーでステージを上げた。

出場16カ国が主催者招待で決められた第1回大会には呼ばれなかったが、初めて地区予選が実施された91年W杯に西サモアは唯一初出場を果たし、本大会ではウェールズを16対13で撃破。豪州に続きプール2位で決勝ラウンド進出を決める。

これはウェールズが、IRB創設メンバーとして初めて1次リーグで敗退することでもあった(だがこの試合で西サモアが決めたトライは、実はボールを押さえていなかったことがビデオ映像に残っている。ビデオレフェリーの導入された今日なら結果は変わっていたかもしれない)。

プレミアムコラム

この記事の続きを読む。

購読手続をすると全ての内容をお楽しみいただけます。
メールアドレス
パスワード

記事検索

バックナンバー

メールアドレス
パスワード
ページのトップへ