「福島から宮城、岩手と走って釜石まで行けないかなあ」
言い出したのは、事務局長の高橋博行さんだった。
僕たち、ラグビーを通じて東北復興を目指して活動しているNPO法人スクラム釜石には、非公認団体の「自転車部」が存在する。
壮大な計画…釜石が2019年ワールドカップの開催都市に決定したことで腹を決めた!
(記事は2015年に開催されたものです)
2013年10月、釜石球技場で行われた初めてのトップイーストリーグ公式戦、釜石シーウェイブス対日野自動車レッドドルフィンズの試合を東京から応援に行ったちょうど翌日、岩手県陸前高田市で開催された東北復興支援の自転車イベント「ツール・ド・三陸」に、スクラム釜石メンバーら8人で、釜石V7時代のはまゆりジャージー着て出走したのが始まりだった。
翌2014年には宮城県石巻市を起点とする「ツール・ド・東北」に石山次郎代表、高橋博行事務局長、大友の3人が参加。石山さんは直前に練習のしすぎで腰痛が悪化し、出走を取りやめたが、博行さんと大友は石巻市から気仙沼市までを往復する最長220kmコースにエントリー。結果は170km地点で無念のタイムオーバーとなったが、復興の途上にある東北の沿岸各市町の景色と、人々の温かさに魅了された。(当時の大友ブログはこちら)
陸前高田市の「ツール・ド・三陸」には、2年連続の出走となった石山代表、高橋事務局長に加え、理事の松坂好人さんも初めて出走した。このイベントのあと、松坂さんとの酒席で、博行さんはぼそっと言ったのだ。
「福島から宮城、岩手と走って釜石まで行けないかなあ」
数日後、僕(大友)のところへ、博行さんから依頼が来た。
「ちょっと、できないか、企画してくれませんか」博行さんは続けた。
「3県を回って、各地のラグビー仲間と一緒に、東北全体で釜石のワールドカップ開催を応援しましょうとアピールできたらいいじゃないですか」
大変でしょ。と思った。いくらなんでも長すぎる。ざっと見積もって300キロ。東京からの移動を考えたら、どう考えても3日はかかる……だけど、魅力的なイベントに思えた。2015年3月、釜石市が2019年ワールドカップの開催都市に決定したことで、僕たちは腹を決めた。走れるかどうか分からないけれど、やってやろう!
幸い、ツール・ド・東北を企画運営したYahooJAPANの須永浩一さん、日本最大の自転車小売りチェーン、ワイズロードで自転車イベントを手がける松坂佳彦さんに、全面的な協力をいただいて、僕たちの思いつきは、徐々に現実味を帯びていった。ライダーたちが着用するジャージーには、新日鉄釜石が全国制覇を続けた時代の赤とはまゆりエンブレムをいただき、背中には東北6県の地図と、津波の被害から立ち上がろうとする被災3県の地名をできるだけたくさん並べた。袖には東北の豊かさを象徴する海の青、太陽の黄色、そして海の幸を代表してホヤとウニのオレンジ色を配置した。東北6県の地図と襟には、東北の大地が最も美しく輝く新緑の色をあしらった。
スタート地点へむけて出発!最初の区間は渡瀬あつ子さんがゲストライダーとして出走
7月18日。新宿駅に集合した僕たちは、ワンボックスカーとワイズロードさんのトラックで出発。スタート地点の福島県南相馬市を目指し、常磐自動車道を北に向かった。
窓の外に広がる光景に、言葉を失った。
僕たちの目に飛び込んできたのは、車窓に次々と現れる、防護シートに覆われた汚染土の山だった。それが、あるところを境にパッタリと姿を消し、今度は手つかずの荒れ地が現れる。田畑だった場所は草が伸び放題。荒れ放題。人っ子一人通らない。それが「帰宅困難地域」の光景だった。作業する人さえそこには入れないのだ。胸が締め付けられる。自分の感情を表現する言葉が思いつかない。自分たちがそこを通っていること、福島県には今もそんな現実が横たわっていること。そして、そんな福島県をスタート地点として、釜石を目指すことの意味を、否応なく考えさせられる。
スタート地点の南相馬市道の駅に到着すると、たくさんの人が待っていてくれた。
南相馬市出身で、ラグビー日本代表応援ソング「楕円桜」を歌う歌手の渡瀬あつ子さんと、前市長でもあるあつ子さんのお父さんの呼びかけで、地元の人たち、アメリカの姉妹都市から留学にきていた高校生など約30人が集まってくれたのだ。差し入れのホッキめし、安積開拓おこわをいただく。絶品。海の幸に恵まれた浜通り、穀物と果実、乳製品に恵まれた中通り、さらに山の幸に恵まれた会津。福島県の豊かさと温かさを改めて思い知る。
渡瀬さんが「楕円桜」を歌い上げ、郡山在住のラグビーサポーターKさんが持参した安積ラグビースクールの富来旗と一緒に記念写真を撮り、いよいよ300キロのロングライドに出発する。薄曇り、ほぼ無風。絶好のコンディションで、スクラム東北ライドGO釜石! はスタートした。
南相馬市から国道6号線を北上する。最初の区間はゲストライダーとして渡瀬さんも出走。高田馬場「ノーサイドクラブ」で開かれる毎月恒例「釜石ナイト」の常連メンバーで、沖縄本島を一周する日本で最もタフな自転車イベントのひとつ「ツール・ド・沖縄」完走経験のある米田さんが先導し、石山さん、博行さん、松坂さん、松坂さんの同僚の伊藤さん、渡瀬さんの5人が続いた。
ベテランの米田さん「最初はペースを押さえていきましょう」
国道6号線は、復興事業のための土砂を運搬する大型ダンプがひっきりなしに行き交うけれど、ライダー隊が登りに差し掛かり、ペースが落ちても、幅寄せなどの乱暴な運転をしてくるダンプは、あまりいなかった気がする。
南相馬市から隣町の相馬市に差し掛かったところ、約30分弱、8キロ地点で渡瀬さんの走行が終了。
「もしかしたら1キロも走れないかも、と心配してました」と笑った渡瀬さんだったが、なんのなんの、軽快なペダリングだった。このスクラム東北ライドの一部を、女性ライダー、しかも福島県出身のライダーが走ったことは、大きな意味があったと思う。
そして再スタート。ウォームアップを終えたライダー隊のペダリングスピードがあがる。緩いアップダウンを繰り返しながら、相馬市、新地町と福島の中を北上する。
小さな峠を越えると「宮城県 山元町」という表示が出ていた。宮城県沿岸部最南端の町だ。ここで6号線を離れ、並行する県道で亘理町を目指すようライダーに合図を送る。だがこのチョイスは微妙だったかもしれない。沿岸部の県道は、並行して少し内陸を走る国道よりもダンプが多く、埃っぽく、しかも路肩がほぼ皆無だった。しかも小雨が降り、泥がバイクにはねる。
ライダーのみんな、ごめんね……ルート判断を悔やみつつ、これも被災地の現実なんだと思い知る。狭い道、ひっきりなしにすれ違う大型ダンプ。たまたまやってきた僕らが感じるこの圧迫感に、ここで暮らす人たちは日常的に接しているのだ。
南相馬を出発して約50キロ。最初の休憩ポイント、亘理町にある「ロッシーハウス」こと、認定NPO法人ロシナンテス東北事業部に到着する。お茶と、自家製の胡瓜の漬け物で歓迎していただく。約2時間半、ノンストップで走ってきたライダー隊の身体に、塩分が染み渡る。
ロシナンテスは、小倉高-九州大医学部でラグビーに打ち込み、外務省医務官となった川原尚行さんが、赴任したアフリカのスーダンで医療支援を続けるため、外務省を退官して設立した法人だ。東北には、2011年の東日本大震災の直後から名取市閖上地区に医療支援に入り、現在では亘理町を拠点に、子どもたちの学習支援、高齢者の農業支援に尽力している。
(詳しくは川原尚行さんの著書『行くぞ!ロシナンテス』(山川出版社)を参照ください)
歓迎してくれたロシナンテスのスタッフ、田地野茜さんが、ロシナンテス東北事業の出発点である隣町の名取市閖上に案内してくれた。閖上には、日和山という、小さな丘がある。江戸時代に、津波から逃げるために作られた人工の丘だという。しかし、高さ6mの丘は、高さ8mを越えた東日本大震災の大津波の前には無力だった。丘の周りに聳える松の木には、丘のてっぺんよりもかなり高いところに、津波の漂流物によって刻まれた傷があった。
石山さんの声かけで、黙祷を捧げ、先を急ぐ。陽が傾いていた。国道4号線に戻り(6号線は岩沼市で4号線と合流していた)北を目指す。約30キロで仙台市内に到着する。
仙台に到着!「ラグビー芸人」サンドイッチマンのお二人から送られた激励メッセージでラグビー仲間は気勢をあげた!
仙台では、仙台ゆうわくフットボールクラブをはじめ、蔵王町にグラウンドを持つくるみクラブなど、仙台で活動するラグビー関係者と懇親会を持った。用意していただいたお店に入りきれないほどのラグビー仲間が集まってくれた。
釜石V7の英雄、名フルバックの谷藤尚之さん、地元仙台出身のウイング永岡章さん、2月の仙台ワールドカップ招致シンポジウムでご一緒した仙台NZ協会副会長のショーン・ダイアさんも駆けつけてくれた。ショーンさんはNZ生まれで宮城県在住30年、オールブラックスのプロップ、トニー・ウッドコクが従弟で、2011年ワールドカップ決勝でウッドコクがトライを決めたときは、「出張先の宇都宮のスポーツパブで見ていて、興奮したよ」と笑う。
「釜石のワールドカップは応援するよ。何でもするよ、何をすればいい?」
そんな言葉を、たくさんの人から聞かされた。仙台は2019年ワールドカップ開催都市に立候補して、選から漏れた。
選ばれた釜石に対して、複雑な思いがあってもおかしくないだろう。でもそんな気配は、誰も見せなかった。誰もが、純粋に、2019年ワールドカップの釜石を応援してくれている。
ここで、仙台市出身の「ラグビー芸人」サンドウィッチマンの伊達みきおさん、富澤たけしさんのお二人からいただいたメッセージを披露する。サンドウィッチマンのお二人は、震災の時ちょうど気仙沼市でロケをしていて被災。ライフラインが停止した中で、ブログで被災地情報を発信し続けた。ブログのコメント欄は、通信手段を失った多くの人たちが、わらをも掴む思いで書き込んだコメントで溢れていた。お二人は、釜石市がワールドカップ招致を目指す動きを見せて以降、いろいろなところで釜石を応援するコメントを発していてくれて、今回も私たちの依頼に快くメッセージをくださった。お二人からのワールドカップ釜石開催&宮城県でもキャンプを誘致しましょうという激励のコメントに、集まっていたラグビー仲間は大いにうなづき、気勢をあげた。
2日目は約160キロのロングライド!まずは仙台から石巻、南三陸町そして気仙沼へ
7月19日、国分町のビジネスホテルに泊まったライダーたちは、ホテルのバイキングの朝食を済ませ、朝7時に集合。ワイズロード松坂佳彦さんが夜の間に整備してくれたバイクにまたがり、朝7時30分に仙台を出発した。
仙台市青葉区勾当台公園前の起点から、国道45号線を、まずは東を目指す。多賀城市、塩竃市を経て松島町へ。しばらく続いた市街地が終わったと思うと、右手に美しい入江が現れる。日本三景に数えられる松島湾だ。穏やかな波が日差しを受けて煌めく。海の輝きを横目に見ながら、ライダー隊はペダルを踏む。約40キロを走破し、東松島市鳴瀬町で休憩を入れたのも早々に再び出発。11時、石巻市フットボール場に到着した。
石巻フットボール場では、40歳以上の選手限定で行われる「不惑大会」の石巻vs仙台の試合が行われていて、谷藤さんはじめ前夜の仙台懇親会に来てくださった方もたくさんプレーしていた(みなさんほんとにタフだなあ)。朝に練習があった石巻ライノスラグビースクールの子どもたちも待っていてくれた。ライダーたちは汗をぬぐいながら、激しく身体をぶつけあう選手たちを見つめる。ライダーたちはやはりラグビーが好きなのだ。「出ますか?」と言われ、石山さんが静かに笑う。
少しすると、ちょうど第1試合が終了。ここで時間をさいていただき、ちょっとしたセレモニーを開いていただいた。スクラム釜石の石山代表が、歓迎への謝辞と今回のライドの趣旨を説明しながらあいさつ、石巻市ラグビーフットボール協会の佐々木勝男会長にもあいさつをいただき、富来旗を掲げて記念撮影。
おにぎりで昼食をとると、チームは二手に分かれた。石山代表はじめライダー数人とスタッフは交流会に残留し、11時30分、高橋博行、松坂好人、米田修の3人が次のポイント、南三陸町へ向け出発。
後発スタッフは石巻不惑大会のアフターマッチファンクションまでお邪魔して、13時45分に石巻を出発。東北の大河・北上川に沿って北を目指し、国道45号線で柳津から山に入り、南三陸町へ。しかし、中継地の南三陸町防災庁舎跡についても、ライダー隊は見当たらない。いったいどこへ……。
そこに、ライダー隊の米田さんから連絡が入る。
「間違えて398号線に入ってしまいました。風光明媚!」
石巻市(旧北上町)から南三陸町にかけての海岸線、北上川の河口から景勝地の十三浜、神割崎などを通る国道398号線は、宮城県沿岸地区でも最も景色の美しいところだが、10km遠回りになり、しかも強烈なアップダウンがある。2日目は150キロを走り、しかも交流ポイントも2箇所あるという最長コースということで、今回のプランでは断念したのだが……
予定よりも約1時間遅れで到着したライダー隊は「坂は大変だったけど、いやあ、キレイだったよ」と満面の笑顔。途中では、多くの小学生が犠牲になった大川小学校で黙祷を捧げ、十三浜や神割崎の美しい景色に目を奪われたという。
全員揃ったところで、南三陸防災庁舎の前で、全員で黙祷。自らの命を省みず、ギリギリまで防災無線で避難を呼びかけた遠藤さんはじめ、たくさんの方が波に呑まれた場所だ。ここで亡くなった大勢の方々の中には、大友が高校、大学時代に最も仲の良かった同級生のひとり、小野さんもいる。大友が、ここでの出来事を説明したけれど、声が少しうわずってしまった。震災以後、この場所には帰省のたびに立ち寄るけれど、そのたびに心が揺さぶられてしまう。見上げる4階のさらに屋上のアンテナの上に捕まっていた人さえ流されたという高さ20m近い津波を想像する。厳粛な空気が流れる。
さあ先を急ごう。気仙沼でも交流タイムが予定されている。予定よりも1時間半遅れて出発。遠回りで消耗した松坂好さん、米田さんと交代して、今度は石山さんと大友が走る。しかし博行さんだけは「大丈夫だよ」とわずかな休憩で、15時再出発。
志津川から歌津、小泉、津谷……海岸線はアップダウンの連続だ。美しい入江に目を奪われたと思うと急な登りが現れる。登り終わると思ったらすぐにダウンヒルが始まる。自転車乗りにとっては苦しくも楽しい時間。とはいえ、博行さんは3度ほど短い休みをとっただけで、もう100km以上走っている、大丈夫か?…と思い振り返ると
「いやあ、笑う余裕なくなってきたよ、ガハハ」
59歳、自転車歴わずか2年ながら、この地金の強さ。さまざまな自転車イベントを企画・運営してきたワイズロードの松坂さんが「凄い。考えられない」と舌を巻いた。
「隊列が乱れないし、フォームが乱れない。やっぱりラガーマンは身体のつくりが違うんですね」
タフなライダーたちを支えてくれたのは、フォンテラジャパン様から差し入れていただいたザバスのプロティンドリンクだった。休憩のたびに、ライダーたちはまず、プロティンドリンクを補給。適度な甘さと塩分が喉を駆け下り、身体じゅうに染み渡り、回復させてくれるのが分かる。
たくさんの富来旗と大きな拍手に逢えられ気仙沼に到着
何度目かの大きな登りを経て、大谷海岸に到着して小休止。ここで、サポートカーで休憩を終えたライダーたちが続々と「走ります」やはり、美しい景色を車窓から見てうずうずしていたのだ。伴走していたワイズロードのトラックから、次々とバイクが降ろされる。
気仙沼へ出発する。気仙沼市南部の階上、最知を経て松岩に入る。大友の地元だ。45号線の気仙沼バイパスを避け、旧道に入る。
「畠山健介選手の実家はあのへんにありました。家族は全員、この八幡神社に逃げて助かりました。でも、あのてっぺん近くまで津波がきました」
そこからまた坂を登る。
「このへんまで流された瓦礫で埋まっていました」
ひとつひとつの説明に、ライダー隊の顔が引き締まる。みな、当時の様子を想像しようとしているのだ。震災を語り継ぐこととは、きっとこういうことなのだろう。気仙沼市中谷地交差点を右折し、気仙沼大橋を渡り、海岸を目指す。津波のとき瓦礫に埋まっていた気仙沼線のガードは外され、アンダーパスが埋められている。かさ上げ工事が進み、道路が変わっている。帰省するたびに変わる景色にちょっと戸惑いながら道を進み、港に出ると……数え切れないほどの漁船がずらりと並んでいた。
改めて見ると、漁船が並ぶさまは壮観だ。活気が溢れている。被災地が、確かに蘇っていることを実感させてくれる景色に感動しながら、待ち合わせ場所のKポートへのカーブを曲がると……たくさんの富来旗と大きな拍手が迎えてくれた!
Kポートは、震災後、被災地を何度も訪れていた俳優の渡辺謙さんがオープンさせたカフェだ。謙さんは、2012年に釜石vs神戸のV7レジェンドによるチャリティマッチを行ったときも激励メッセージを贈ってくれた。Kポートには毎朝、謙さんから自筆のFAXが届き、店内に掲示されるのだが、この日のFAXには、私たちスクラム東北のライダー隊への激励と、釜石ワールドカップへの応援メッセージが書かれていたのだった!
気仙沼のセレモニーでは、気仙沼市ラグビー協会副会長で宮城県ラグビー協会副理事長の守屋守武さんからごあいさつをいただき、さらに気仙沼向洋高ラグビー部の藤村くん、ちょうど帰省で母の故郷である気仙沼を訪れていた大阪ラグビースクールの中学生・浅野くんからもあいさつをいただいた。2019年とそれ以降のラグビー界を、そして日本の復興を担う若い世代の声を直接聞けたことは、私たちスクラム東北ライドのチームにとって、この3日間で最も嬉しい時間のひとつとなった。(松岩小中の同級生YとH、来てくれてありがとう!)
日が傾いてきた。時計は18時を指そうとしている。
今日の目的地、陸前高田市までは峠越えを繰り返して約20キロ。陽が落ちる前に到着できるかギリギリだ。
「さあもうひとっ走り」「着いたらビールだ!」「ビールだビールだ!」
Kポート前を、たくさんの拍手に送られて出発。船着き場を回り、かさ上げで町の姿が変わってしまった魚町から、共徳丸の撤去された鹿折に抜け、45号線のバイパスに合流すると、きょう最長最大の上り坂に入る。だがライダー隊は意気軒昂だ。誰も止まることなく順調に登り切る。唐桑トンネルを抜けると、部分開通している三陸道を離れ、旧道へ。このコース最大のヘアピンカーブと、豪快なダウンヒルだ。あっという間に時速50キロを越える。思い切り踏んだら70キロは軽く越えそうだが……今回はあくまでスクラム東北ライドの先導だ。控えよう。
坂を下り、短い只越トンネルを越えると、また登り坂が現れる。ここから陸前高田に入るまでの小原木(こはらぎ)は、ライダーにとって天国のような区間だった。三陸道が無料供用されていて、通過車両は全部そちらへ。しかも日曜日の夕方だ。旧道はダンプはもちろん乗用車もほとんど通らない貸し切り状態。しかも、坂を登った上の高台を下ることなく走れる、さしづめ高原周遊道路だ。目を右に向ければ、緑に包まれた島が点在する美しい入江が広がる。遠くは広田半島。そして夕焼けを受けて輝く雲。三陸を走る幸せを最高に感じる時間だった。
そして、陸前高田へ入る。三陸沿岸随一の大河・気仙川をまたぎ、長大なベルトコンベアーが空中でかさ上げ用の土砂を運ぶ。
「奇跡の一本松はあそこですよ」
「どこ?」」
林立するコンベアーの支柱で、あのシンボリックな松も、なかなか見えないほどだ。茜色に染まった空の下、きょうの宿泊地・陸前高田市竹駒町の復興商店街にある「車屋酒場」を目指し、最後の登りに入る。この登りが長く、急だった。午後7時15分、ようやく到着。160キロの道のりを、博行さんは完全走破した。
陸前高田では、大船渡や気仙沼からかけつけたラグビー仲間と復幸宴会。待望のビールを次々と喉に流し込むライダーたち。ビールが喉から身体全体に染み渡っていくのがわかる。そして新鮮なカツオをはじめとした絶品の海の幸!
160キロを走り抜いた博行さんを筆頭に、走り抜いた心地よい疲れを感じながら、走り抜けてきた美しい景色と空気を思い出し、語り合いながら、夜は更けていった……。
最終日、最終目的・釜石へ向けラストラン
そして最終日、7月20日。いよいよ最終目的地、釜石を目指す日だ。
陸前高田から釜石までは約60キロ。しかし、この区間は昨日以上の急坂、トンネルが連続する最も過酷な山岳ステージだ。
「エースの博行さんが完走できるよう、みんなで交代しながらアシストしましょう」
といって7時45分、元新日鉄釜石バスケットボール部の車屋酒場店主・熊谷栄規さんに見送られて出発。陸前高田の海岸線、45号線まで戻る。津波の到達点、ガソリンスタンドの高さ15mの看板に赤い線が引いてある。広大な平地が10m近い高さまでかさ上げ工事が進んでいる。新しい町を作るのだという強い決意が伝わってくる景色だ。高田の平地を抜けると、道路は徐々に傾斜を増す。三陸道との分岐を過ぎると、さらに坂は急になる。無理は禁物だ。きょうのライダー隊は早め早めの休憩を心がける。
177mという標高以上に厳しい通岡峠を越え、大船渡市へ降りていく。どんないキツイ思いをしても、登ったあとには下るのがサイクリングの楽しみだ。死にそうな顔で走っていたライダーズも、喜喜として下っていく。
大船渡の町を抜けたところでライダー交代するが、博行さんは交代しない。標高388m、今回のコース最高到達点の大峠に向けて坂を登る。カーブを曲がり、曲がり、徐々に高度をあげていく。傾斜が10%を越える急坂が続く。前方をシカが横断する。
ラッキーだったのは、小雨が降っていたことだ。普段のサイクリングなら、雨は歓迎できないが、これだけの急坂を、ほとんどが50代という中年(素人)サイクリストが登るにあたり、日差しが遮られていたことがどれほど幸せだったか。
2012年に釜石神戸V7マッチを行ったときも、秩父宮は朝から雨が降っていた。そのとき、誰もが口にしたのが
「おじさんたちが熱中症にならないように、洞口さんが雨を降らせてくれたんだね」
という言葉だった。V7釜石のスクラムを支え、日本代表のスクラムを支え、引退後は45歳の若さで早世した洞口孝治さんの故郷は、この日のコースの終盤にある釜石市両石町だ。誰に対しても優しかった洞口さんが降らせてくれたに違いない雨に癒やされながら、深い緑の森を貫く急坂を黙々と登る。いつ終わるともしれない坂だが、いつか坂は終わる。
頂上のトンネルを抜け、濡れた坂道を慎重に下る。道の駅・三陸で再びライダー交代。吉浜では、釜石V7時代の名部長だった三笠洋一さん(故人)の奥様で、スクラム釜石メンバーの三笠広介・杉彦兄弟の母、三笠恵子さんが激励と差し入れに駆けつけてくれた。南リアス線の唐丹駅では、30 年前に大船渡から釜石まで自転車通勤していたという猛者にして画家の石丸さんが待っていてくれた。徐々に釜石が近づいてくる。
またアップダウンを繰り返し、トンネルを抜ける。野球場にできた仮設住宅の横を下る。道端の人が手を振ってくれる。すれ違うサイクリストが手を振ってくれる。揃いのジャージーが目立っている。釜石大観音を抜け、下った先に、製鉄所の大きな建物が見えてくる。かつて橋上市場があった大渡橋を渡り、市内に入る。津波に襲われた市街地に再建された「タウンポート大町商店街」に、釜石シーウェイブスOBでシーウェイブスジュニアのコーチの及川勝加さん、釜石市ワールドカップ準備室の増田久士さんら、約20 人が富来旗を広げて待っていてくれた。
みごとに雨は上がっている。ライダーの到着とともに、大きな拍手が湧き上がる。ここまで来たんだ、という安堵の思いがわき上がる。V7釜石の時代から取材を続ける元東海新聞記者、現在は釜石復興新聞の取材編集を一手にこなす川向修一さんも待っていてくれた。一同、心地よい疲労感で取材を受ける。
さあ、いよいよ最終区間だ。スタジアム建設予定地の鵜住居へ。最後の最後まで峠越え、トンネルのある区間だが、渡瀬さんを除き男性ライダー全員がバイクに乗った(シーウェイブスサポーターの方が運転を引き受けてくれました。感謝です!)
釜石市役所横の坂を上り、鳥谷坂(とやさか)トンネルを抜け、洞口さんの故郷の両石を抜ける。津波で何もなくなったかつての市街地は、更地のままのところもあれば、住宅や工場が再建されているところもある。僕たちは福島県南相馬市から海岸線を300キロ走ってきた。復興の進み具合はそれぞれだったが、どの土地でも、人々は厳しい現実と向き合っていた。これまで走ってきた道のりに思いをはせながら、最後の峠となる恋の峠を越えると、スタジアム建設予定地の鵜住居地区だ。
ダンプとすれ違いながら、巨大な盛り土となっているスタジアム建設予定地の横を擦り抜ける。この場所に、4年後、スタジアムが建つのだ……そう思いながら、ペダルを踏む。最後のコーナーを回る。賑やかな笛太鼓の音が聞こえてきた。
富来旗が広げられ、地元の伝統芸能・鵜住居虎舞で迎えてくれたのだ。その横に、宝来館の女将、岩崎昭子さんとシーウェイブスの桜庭吉彦さんが並んで笑みをたたえている。大きな拍手を浴びながら、石山さんを先頭に、ライダー隊がゴールする。歓迎の富来旗が振られる中、続いてサポートスタッフの乗ったワンボックスと、ワイズロードのトラックが到着。富来旗を振っているのは、1月のワールドカップリミテッドの視察のときスタジアム予定地が分かるように寒風の中で旗を振っていた若者たちだ。クルマを降りたスタッフもライダーと一緒に並んで、勇壮な虎舞を見つめる。
石山さんがあいさつする。
「3日間で300キロ、我々に本当に走れるのだろうか、自信はなかったけれど、悩んでいるよりも、やってみよう、と思ってスタートしました」
静かに吹き抜ける海風が、心地よい疲労感を誘う。博行さんはみごと300キロ、いや。320キロを完走した。
「いやあ、走れたねえ」
博行さんの笑顔に、残るメンバーもつられて笑う。みな、一部区間を交代しながら、博行さんをアシストしながら走りきった。ライダーだけではない。救護係のフミコさん、ポイントに先乗りしてイベント準備に奔走した早川さん&ユウキさん、サポートスタッフの黒滝さん、撮影隊の堀江さん&須永さん、ワイズロードの松坂さん、全員がチームとなって、博行さんの完走を支えたのだ。
ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワンだ。
「じゃあ、汗を流してきて」
女将に促され、宝来館自慢のお風呂へ。真新しい檜のにおいが鼻腔に心地よい。風呂を出ると、出迎えてくれた「ラグカフェ」のスタッフ広田さんが中心となって、とびきりの海鮮バーベキューを用意していてくれた。特大のホタテ、ウニ、トビウオ、味噌焼きおにぎり。
走り抜いた身体に、新鮮な海の幸が染み渡っていく。
福島、宮城、岩手。
南相馬から相馬、亘理、名取、仙台、松島、石巻、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡を経て、釜石、そして鵜住居へ。
常磐道から見えた、帰宅困難地域の光景。閖上の日和山。南三陸の防災庁舎。震災の記憶を後世に伝えるために、忘れてはいけないいくつもの景色を目に焼き付けた。
厳しい現実を前にしても、笑顔で復興に取り組んでいる人たちの姿を見た。
行き交うダンプ、砂埃、重機の列、今なお多い仮設住宅……「復興」という言葉では括りきれない、さまざまな現実も見た。
そして、そんな、難しい数々の要素も、吹き飛ばしてしまうくらいの美しい景色。これでもかといわんばかりに出てくる、舌がとろけてしまいそうな海の幸。
東北は豊かだ。東北は美しい。東北は強い。そして、東北は優しい。
そして東北には、まだまだ僕らの知らない魅力がある。
きっと、ラグビーワールドカップ2019は、そんな東北の魅力を、世界に向けて発信する機会になる。
3日間、ひたすらペダルを踏みながら被災地を巡ることで、僕らはあらためて、そう確信した。
また走ろう。
続けていこう。
復興する東北の姿を見続けよう。
東北を復興させる人たちと、スクラムを組み続けよう。
大友信彦 1962年宮城県気仙沼市生まれ。気仙沼高校から早稲田大学第二文学部卒業。1985年からフリーランスのスポーツライターとして『Sports Graphic Number』(文藝春秋)で活動。’87年からは東京中日スポーツのラグビー記事も担当し、ラグビーマガジンなどにも執筆。プロフィールページへ |