RUGBYJapan365の人気コーナー、ラグビー史を彩ったエポックメイキングな過去記事を再録する、「楕円球タイムトラベル」久々の更新です。
今回紹介するのは、このほど亡くなった平尾誠二さんが日本代表を初めてキャプテンとして率い、歴史的勝利に導いたスコットランドxv戦のあとに、当時『ラグビーマガジン』のライバル誌として発行されていた『ラグビーワールド』に掲載されたインタビュー記事です。
インタビュー/構成は、当時27歳の大友信彦記者。同学年で26歳の平尾誠二さんに、神戸市御影にあった神戸製鋼本社ビルで、約2時間にわたるロングインタビュー。実はこれが、大友記者による平尾さんへの初めての1対1のインタビューでした。
「まだ記者歴5年目、今だったらこうは書かないだろうな、と思うような強引なまとめ方をしている部分もありますが、それも1989年時点の真実なので、あえて、ほとんど手を加えずに出すことにします」(大友)。
今を去ること27年、ラグビー日本代表を新たな地平に導いた平尾さんが、熱い言葉をはき出した1989年に、タイムトラベル!
26歳で日本代表キャプテンに
「嬉しいと同時に虚しい―そんな気になったんです」
ジャパンのキャプテンに指名されたときのことを、平尾誠二はそう言った。
「日本でラグビーをやっている以上、ジャパンのキャプテンっていうのは、やっぱり最高峰でしょう。そこに立ったという満足感はありましたが、それとは裏腹に虚しさいうか―最終ラインに達してしまったような、それこそ引導を渡されてしまったような気もしたんです」
1963(昭和38)年1月21日生まれの平尾にとって、新主将に任命され、発表されたときは26歳2ヵ月に過ぎない。神戸製鋼に入社して、社会人生活を始めてからたった3年、思いきった若返り人事という点では、同じ日本代表の宿澤広朗監督(38歳)にも匹敵する抜擢だ。
しかし、平尾の言葉にも、表情にも、その人事に対する戸惑いや驚きは感じられなかった。重荷に感じていたようにもみえない。平尾はいう。
「気負ってはいなかったですね。でも、キャプテンになると、急に優等生になってしまう人が多いでしょ。自分が、なぜ選ばれたのかはわからないけれど、自分の持ってるもの、キャラクターを出していかないとダメだ、とは考えていました。それは、自分そのものを出していかないと、何が足りないのか、何ができないのか、といったことが何もチェックできないからです」
平尾は周知の通り、伏見工3年で主将を務め、1980(昭和55)年度の花園で全国優勝を果たしている。同志社大に進んで4年の1984(昭和59)年度、主将はPR中村剛、平尾は副将だったが、中村は欠場がちで、実質的には平尾が主将を務め、大学選手権3連覇を果たした。
そして、記憶に新しい昨シーズン(1988=昭和63)年度、神戸製鋼の主将になるやいなや、社会人大会で初優勝を飾り、そのまま日本選手権を獲得。日本のラグビー4大大会を総ナメにした選手すら稀有なのに、平尾はその全てを主将になって最初の年に優勝したのである。
そして今回、ジャパンの主将になって、いきなりの金星だ。
「ホンマ、自分はなんてツイてるんやろな、思いますよ」
その強運も、キャプテンに推された要因だったのかもしれない。
しかし、運だけでは“4階級制覇”まで達成できないだろう。その運を呼びこむために平尾は一体、どういうことをしてきたのだろうか。