釜石のスクラムを押し続けた男—洞口孝治氏の早すぎるノーサイド | ラグビージャパン365

釜石のスクラムを押し続けた男—洞口孝治氏の早すぎるノーサイド

2012/09/19

文●大友信彦


今回の楕円球タイムトラベルは、9/23に迫った「V7戦士チャリティマッチ」特別企画。1999年6月に急逝した、釜石V7の大黒柱・洞口孝治さんの追悼記事(Number475号)をお届けします。

洞口さんはこのとき45歳。信じられない若さでの旅立ちでした。
9月23日。ホラさんと一緒に松倉グラウンドを駆け、泥をなめた仲間達が、あのとき一緒に戦ったライバル神戸製鋼の選手たちと、震災復興を合い言葉に集まり、試合をします。
ホラさんもきっと駆けつけて、やはり亡くなった、神戸製鋼の兼平盛輝さんと、スクラムを組んでいることでしょう。

岩のように強く、真綿のように優しかった。新春の秩父宮、花園、国立競技場。スタンドにそびえる大漁旗と、枯れ芝の上で凱歌をあげる炎のジャージー。日本ラグビーの歴史に燦然と輝く日本選手権7連覇の金字塔を打ち立てた新日鉄釜石の先頭には、いつも背番号3を背負った洞口孝治が立っていた。

「ブロップの仕事はまずスクラムを押すこと。俺の自己主張みたいなものだったな。 一度も力負けしなかったと言い切れるよ」

釜石工高から同級生のロック瀬川清とともに新日鉄釜石へ。191cmの巨漢・瀬川は新人時代から徹底的に鍛えられた。「アイツは目をかけられてるな、期待されてるんだな、と……何かこう、面白くないんですよ」。釜石のレギュラー、さらに日本代表ヘトントン拍子で出世した瀬川をライバルとして猛練習に打ち込んだことが、日本最強のタイトヘッド誕生の序曲となった。

入社5年目の1976年度にレギュラーに定着。釜石V7のすべての試合でスクラムを押し続けた男は、温厚な笑顔の裏に反骨心を秘めてもいた。1979年には日本代表入り。敵と味方、16人が押し合うスクラムのすべての力が集中する過酷な右プロップでのキャップ24は、今も破られない日本記録だ(1999年現在)。

 

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