大野均現役引退記者会見―体を張り続けたリアルロックのラストメッセージ | ラグビージャパン365

大野均現役引退記者会見―体を張り続けたリアルロックのラストメッセージ

2020/05/22

文●編集部


5月22日、日本代表最多キャップ数98をもつ大野均選手(東芝ブレイブルーパス)が現役引退記者会見を行った。新型コロナウィルス拡大防止のためウェブ会見という形式で、80名ほどの報道陣にむけて1時間にわたって行われた。「激しく体を張り続けた」リアルロック、最後の言葉を余すことなくお届けする。ありがとう。キンちゃん。

膝の故障が回復ならず…多くの声援でここまで現役を続けることができた。

本日は コロナウィルスの影響でウェブ会見となりましたが、多くの方にお集まりいただきありがとうございます。今年も多くの素晴らしい選手が引退するなか、私自身にこのような機会を設けていただきありがとうございます。

大学からラグビーをはじめ、素人同然のワタシを誘っていただき、とっていただいた東芝の社員の皆様をはじめ、多くの人に励まされながらここまでやってこれました。

「灰になってもまだ燃え続ける」が信条ですが、1年ほど前から膝の痛みが出てきて、昨年末から別メニューで調整し、長い間治療をしてきましたが回復みられませんでした。また、ワールドカップでの日本代表の躍進や、東芝のラグビー部内でも若い選手の台頭が見られ、とても頼もしく感じました。

これ以上選手として、選手としてやり残したことないという思いを感じ、引退を決意しました。これまで長い間、東芝ブレイブルーパス、日本代表でのプレーを多くの方に応援していただき頑張ってこれました。スタジアム内外の声援のおかげでここまで現役を全うできました。

今後は私を育ててくれた株式会社東芝、東芝ブレイブルーパスに恩返しができるような活動をしながら、「大野均」として、これから自分のできること、自分にしかできない道をみつけて
日本ラグビー界に貢献していきたいと思っています。




一番印象に残っている試合は「2013年ウェールズ戦」

2013年ウェールズ戦、いつもは冷静な大野は、熱く相手選手とファイトする場面も見せた

2013年ウェールズ戦、いつもは冷静な大野は、熱く相手選手とファイトする場面も見せた

――日本代表歴代最多98試合出場されましたが、一番印象にのこっている試合は?


桜のジャージーを着て出場したすべての試合が印象に残っていますが、強いていうのであれば、もちろん15年南アフリカ戦もそうですが、2013年ウェールズに勝った試合ですね。私が日本代表に入った2004年、遠征で100点差で負けたウェールズに9年後、秩父宮で勝てるとは、そういう試合ができるとは、当時の私は思っていませんでした。その試合は先発で出場し、ノーサイドはベンチで見届けましたが、 勝利を確信したとき、涙が出てグラウンドが見えなかったことを覚えています。

2013年ウェールズ戦・勝利後の集合写真

2013年ウェールズ戦・勝利後の集合写真

2013年日本代表・ウェールズ代表に歴史的勝利!大野均「今日はいい試合を見せることができた」



――東芝の後輩たちに期待すること


昨年のワールドカップを経て、ラグビー選手が今すごく注目されている中でグラウンド内でのパフォーマンスはもちろん、グラウンドの外でも人として尊敬、信頼される行動、気遣いに努めてほしいと思います。それによってラガーマンの素晴らしさを皆さんに感じてもらう、そういった行動をとってほしいなと思います。

ラグビーは何歳からでもはじめられる。



――今後の日本ラグビー界はどのように発展していってほしいか


昨年ワールドカップの後から、公園などでラグビーボール子供たちが遊んでいる姿がよく見られる様になりました。そういった子供たちがもっともっと増えてほしいですね。そのためにはやっぱり日本代表が強いことが不可欠だと思っています。日本代表が世界の強豪に勝つこと。それを見た子供たちがラグビーの魅力を感じてラグビーを始める。

ラグビーの競技人口が増えて、日本代表が強化される。そういったいいスパイラルの中で発展していってほしい。私のように、ラグビーは何歳からはじめてもできるポジションがあリます。私のような人間でも気軽にラグビーがはじめられる、そういう環境を整えていければと思います。

――引退を決めるときにどなたかに相談をされましたか。また一番感謝したい方はいますか


引退を決意する上で特に迷って誰かに相談することはなかったです。私自身の体と向き合った時にここが限界かなと思いました。一番感謝したいのは、やはり私を育んでくれた両親と地元後援会の皆さんです。大型バスをチャーターして、郡山から東京まで何度も応援に来ていただきとても勇気づけられました。

日本代表でゲームキャプテンを務めたこともあった

日本代表でゲームキャプテンを務めたこともあった

――42歳までプレーができた原動力は


やはりラグビーをプレーすることが好きだったということですね。そして、スタジアム内外でもらうたくさんの声援が背中を押してくれました。東芝の先輩である、松田努さんの記録を超えられればいいなと漠然と思っていましたが、あと数ヶ月足りませんでしたね。


――これまでのラグビー人生で後悔はなかったとおっしゃっていましたが、あえていうのであれば何かありますか


これまで東芝、日本代表で本当に数多くの試合をプレーさせてもらいました。もちろん試合の直後は、あのときのこういうプレーをすれば、とか、あのミスは自分のせいだとか考えることはありますが、ラグビー人生を振り返って、これだけ多くの試合を、素晴らしいスタッフ、選手たちと戦うことができ、たくさんのファンの皆さんに応援していただいたことに感謝しかないです。


2020年1月引退をしたトンプソン ルークと

2020年1月引退をしたトンプソン ルークと

――これから日本代表はさらに高い目的を掲げていますが、何が必要か。


日本が世界で勝つ上で 「ハードワーク」というキーワードはかかせない。昨年のワールドカップであれだけ日本代表が躍進できたのはハードワークに加えてジェイミー(ジョセフ 日本代表HC)が自主性を尊重してくれたからだと聞いています。「ハードワーク」と「自主性」この2つのキーワードが今後も大きなキーワードになると思います。

また、ワールドカップで日本代表が4勝したことで、日本中のラグビーやっている選手がじ自信を感じられたと思う。日本ラグビーは強いんだという、その自信を積み重ねていけばフランス大会でもベスト8以上の成績が残せると思います。

これからの日本ラグビー界に必要なのは、ラグビー界は大きく変わろうとしているが、横のつながり、チームとチーム、それをもっと強固にして。自分たちのチームだけ強ければいい、人気があればいいだけではなく、日本ラグビー全体でもっと高みを目指していければいい。


ラグビー人生で大事にしてきたことは「激しさ」

2007年トップリーグ開幕戦、サントリーとの「府中ダービー」

2007年トップリーグ開幕戦、サントリーとの「府中ダービー」

ラガーマンとして、プレーヤーとして一番大事にしてきたのは「激しさ」。自分は大学からラグビーをはじめて、パスもキックも下手くそな中、何がチームに貢献できるかをかんげた時、走ることと激しくすること。そしてグラウンドを離れたら ファンを大切にすることを一番に考えていました。

そうすることで見えてきたものは、「ラグビー選手はラガーマン」だということですね。 ラグビーの文化、独特な文化をワールドカップでも日本中のみなさんが感じてもらったと思いますが、オールブラックスでもヨーロッパの強豪チームでも、選手たちはキャンプ地の人にもやさしく接していました。でもプレーは激しいですよね。そういうラグビーの魅力をこれからも広げていきたい。

――大学からラグビーをはじめて、ラグビーでここまで結果をだせた、大野さんのどういうところに合っていたのか。


パスもキックも下手な自分がどうやってチームに貢献できるか。それを考えたらシンプルでした。 もしキックやパスがうまかったら、何をプレーするか迷ってここまで現役を続けられなかったと思う。また自分が所属した、日本大学工学部、東芝ブレイブルーパス、日本代表、サンウルブズもそう、本当に魅力的なチームで、このチームで勝ちたいと思わせてくれる集団でした。そのチームのために自分ができることを全部投げ出そうという思いでやってきました。

――東北出身で2011人の震災以降いろいろな活動もされてきました


東北では2011年に震災があって、今でもつらい思いをしている人がいる中で、少しでもラグビーで苦しさを忘れられるように、そういう試合がしたいと思いながら2011年から続けてきました。


――これからも福島県はじめ、大野選手と日本全国の皆さんが熱くなれるか


呼ばれれば、いつでも(笑)。


――福島の後援会のみなさんに伝えるとしたら


昨年も洪水の被害で日大工学部も浸水しました。やっぱり福島の人たちは本当に強いと感じました。私もそういう強さを見習ってここまでプレーすることができたと思います。福島の皆さんにもラグビーを通じてなにか還元できればと思います。


――現役選手を引退、今一番何がしたいですか


個人としては、娘が韓流アイドルのファンなので。新大久保をデートをしたいなと思います。(笑)。週末は練習、試合、合宿となかなかゆっくりできなかったので。今後はそういう時間も大事にしていきたい。娘からはシンプルに「お疲れさまでした」と言われました。

――どんな感じでラグビー界に貢献


まずは東芝ブレイブルーパスが王座奪還するための何かしらのサポートをしたいなと思っています。やはり、いろんな地方に出向いてラグビー普及、ラグビーの人気を引き上げる活動にも尽力したいと思っています。



――10年前の今日、大野さんは日本代表キャプテンとしてニュージーランド大会の最終予選で香港代表に勝利しました。何か印象に残っていることは


10年前、まだ日本でのワールドカップがあれだけもりあがるとはだれも想像できなかったと思います。当時の自分は1プレーヤーとして、もう本当にパフォーマンスを見せる、ラグビーをアピールするだけという思いで戦っていました。この10年間、エディーさんが監督になって、本当に選手に対して厳しく鍛えてくれて、2015年の結果があって、その上に2019年の結果が積み重なったと思います。日本ラグビーはいい歩みをしてきています。2023年フランス大会にむけてギアを落とすことなく突き進んでほしい。

大野選手が「理想のコーチ」という、サンウルブズ初代HC、マーク・ハメット



――今後について


コーチについては要請があれば考えたいなと思っていますが、今のところその予定はありません。もし、コーチをする上で理想のコーチは?と聞かれたら、サンウルブズ初代ヘッドコーチのマークハメットですね。彼はサンウルブズが船出するときに、多くの批判的な意見があるなか、常に選手をポジティブなマインドにして彼自身もラグビーを楽しんでいました。そういう姿勢をみて、彼がサンウルブズの最初のコーチで良かったなと思っています。今後はチームと相談しています。



――サンウルブズ、スーパーラグビーで戦ったことは貴重な体験でしたか


スーパーラグビーという舞台で自分がラグビーを始めた時には本当に夢の舞台でした。まさか自分がそこにたてるとは思っていなかったです。合宿初日に練習ウェアを支給されるのですが、この部分(右肩)にスーパーラグビーのロゴが刻んであったのを見て ホテルの部屋でニヤニヤしていました。サンウルブズは間違いなく日本ラグビーを強化する上で重要なものだったと思います。


――府中、第二の故郷、府中への思い


府中は本当にラグビーの街、ラグビーを応援してくれる、暖かい。2015年ワールドカップから帰国して、けやき通りでサントリーの代表選手と一緒にパレードをして4000人集まった時、その光景は自分が見たかったものの一つ。本当に街の中で数多くの方に声をかけてもらいました。

――高校生、大学生が思うように練習ができないという状況。さらに日本人のLO選手がなかなかでてこない状況について


この状況で悔しい、せつない思いしている高校生はたくさんいると思いますが、こういう思いをしているのは自分たちだけじゃない。いっぱいいることを胸に刻んで過ごしてほしい。自分は大学に入って、LO というポジションだったから、ここまで長くできたのかなと思っています。 パスが下手でも キックができなくてもラグビーは自分が得意なプレーで 勝負できる。 ラグビーに少しでも興味をもったら挑戦してほしい。

2012年独占インタビュー「キャップ数というのは、これまでの積み重ねであり、これだけ多くの試合に出してもらえたのは自信にもなりますね」と答えた

2018年開催した「東北・クライストチャーチチャリティーイベント」伊藤剛臣氏(中央)、大野均氏(右)。楽しいエピソードで会場は常に笑いに包まれていた。

2018年開催した「東北・クライストチャーチチャリティーイベント」伊藤剛臣氏(中央)、大野均氏(右)。楽しいエピソードで会場は常に笑いに包まれていた。

―― グラウンド内外でもこれまでで感じたラグビーのこういうところが大事というものがあれば教えて下さい。


日本代表に入った2年目、フランス遠征でのことですが、伊藤剛臣さん(神戸製鋼⇒釜石SW)と一緒の部屋になったときの話です。 日本から移動して24時間。もうみんなヘロヘロでチェックインして、そのまま寝るだろうとおもっていたら、剛臣さんがジーパンに着替えて「飲みに行くのでおまえもついてこい」と言われてホテルのロビーに降りたら、箕内(拓郎)さんもいて。。。こういうタフな人がジャパンでは活躍できるんだなとその時に再認識させられました。

箕内さん、タケさん、大久保直弥さん、マンキチ(故・渡邉泰憲)さんですね。そういった大先輩にあこがれてプレーを続けられたと思います。

菊谷主将の肩を抱くLO大野均。1勝もすることができずに日本代表は2011年ワールドカップニュージーランド大会を終えた。

菊谷主将の肩を抱くLO大野均。1勝もすることができずに日本代表は2011年ワールドカップニュージーランド大会を終えた。


―― さきほど印象深い試合はウェールズとの試合といわれてましたが、3大会出場されたワールドカップでは?


ワールドカップの試合はどの時間も印象にのこっていますが、2011年NZ大会、オールブラックスとの試合後、アフターマッチファンクションがありました。日本代表の選手はオールブラックスのロッカーへ行っていろいろと交流したのですが、その時同じLOのブラッド・ソーン(現・レッズHC)が来てくれて自分のジャージを交換してくれと言われました。あの試合は、80点差くらいで負けた対戦相手に、それでもリスペクトしくれて本当に嬉しかった、感銘を受けました。ソーンも結構年だったと思いますが、自分はその時32歳でした。自分の年齢を伝えると「まだまだキッズだな」と言われたことを覚えています。

2007年ワールドカップ初出場となったフィジー戦

2007年ワールドカップ初出場となったフィジー戦

―― どのような思いでワールドカップで望んでいた


ワールドカップに望む思い―4年に1度、本当に一握りの選手しか出場することができない。選んでもらった31名の中からグラウンドに出れるのは23人。さらに先発は15人と絞られる。その一人として、責任感を感じた舞台です。その大会に3大会も出られて。ワールドカップはどの大会も国をあげたビックイベント、非日常を楽しみました。


――「灰になってもまだ燃える」 それに変わる言葉があれば


これからの人生に役立つ言葉をさがしていきたい。


東芝でのラストゲームとなった昨年8月のクボタ戦。背番号19がピッチに入ると、誰よりも大きな拍手が贈られた

東芝でのラストゲームとなった昨年8月のクボタ戦。背番号19がピッチに入ると、誰よりも大きな拍手が贈られた



―― 2018年の時点では、東芝でなくてもラグビーを続けられるのであれば、続けていきたいと伺っていました。引退、いつ踏ん切りをつけた。


いつ決めたか、1年ほど前から膝の痛みが慢性化。昨年末から走ることも難しいほど悪化していました。今年は1月からトップリーグが開幕しましたが、今シーズンが最後になるかなと漠然と思ってシーズンをすごしてきました。長い間、治療を行い、調整をしてきましたが回復がみられませんでした。コロナの状況でグラウンドでの練習が難しく、個人での調整が続く中、ふと朝起きて今日走れるかなと思って、走ってみたら、それでもやっぱり痛かったのでこの辺が潮時かなと思いました。


―― 大野さんの「体を張り続けるプレー」を後継する選手は

東芝の梶川(喬介)、小瀧(尚弘)に受け継いでいってほしい。すでに現時点でもチームのために体をはっていますし、それがとても頼もしく、誇らしく思えたので踏ん切りがついたというのもあります。日本人LOが活躍してくれるのを楽しみにしています。


本日は長い時間にわたっていろんなお話をさせていただきありがとうございます。これからも日本ラグビー界に貢献していきたいと思いますので、一人一人のお力を貸していただければと思います。


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