WTB大畑大介――京産大時代に日本代表に選出され、神戸製鋼だけでなく日本代表としても活躍、テストマッチ通算69トライの世界記録を誇る「世界の翼」だった。
2010-11シーズンにスパイクを脱いだ大畑は、現在、ラグビーの普及やラグビーを通じた人材育に精力的に活動中である。
そんな大畑は高校時代を振り返って「あまり良い思い出はない」と言うも、「自分の土台を作ることできた」とキッパリと断言する。
当時、全国的には知られていなかった高校生がどのような思いを持って、どんな練習をし、その後スターの階段を一気に駆け上がっていったのか――その秘密に迫った。
前編・後編の2部構成でお届けする。
※初出:「ラグビー魂 Vol.6 (2008秋冬版)」 (白夜書房)
小学生から身近だった“花園”
――いつからラグビーを始めたんですか?
大畑 ラグビーをはじめたのは父の影響で小学校3年生からでした。僕ら大阪のラグビースクールに通う子どもたちにとって近鉄花園ラグビー場は身近なもので、当時の体育の日や11月中旬にラグビースクールの大会があって、改修前の第1グラウンドにも立っているんですよ。
――高校生の全国大会としての“花園”はいつから意識していましたか?
大畑 大阪府や兵庫県の野球少年が“甲子園”に憧れるような感覚で、小学校の頃から正月といえば高校生の花園大会というイメージがありましたね。だから小学校の頃から「高校生になったら花園に出たい!」と思っていましたし、中学生の頃には「高校2年生になるときに花園が立て替えられる」という話を聞いていたので「新しくなった花園に出たい」と思っていましたね。
――高校入学以前に印象的な試合はありましたか?
大畑 僕の中では熊谷工(埼玉)の堀越正巳さん(早大~神戸製鋼。現立正大学ラグビー部監督)が國學院久我山(東京第1)と対戦して優勝(22-6)した(1987年度)決勝とその翌年の3回戦、橋本徹大阪府知事(現大阪市長)が出場していた北野(大阪第1)が伏見工(京都)と対戦した3回戦(12-16)が印象に残っています。北野対伏見工は第1グラウンドが満員になって、第1グラウンドと第2グラウンドの間のフェンスを登っている人もいました。僕にとって「花園ってすごい!」と印象づけられた試合でしたね。
――それでは、どうして当時まだ花園に出場したことのなかった東海大仰星に進学したんですか?
大畑 あまり部活特有の厳しい上下関係みたいなものが好きではなかったですし、僕が9期生と東海大仰星は新しいチームだったのでやりやすいと思ったんです。また、大阪で2番、3番のチームだったので自分の力で一番になりたいと思っていましたね。あと小学校からずっといっしょにプレーしていた宮野智弘さん(東海大仰星~東海大)がいて「楽しいチームだよ」と誘ってもらい、東海大仰星の土井崇監督とも話しをして決めたんです。