1月29日(火)、東京都内のホテルで8シーズンに渡りヤマハ発動機ジュビロを牽引した清宮克幸監督の退任会見が行われた。TVカメラは8台、報道陣は約100名を越える注目の会見となった。8シーズンを振り返る1部と今後の活動に関する2部構成となった。
清宮監督のトップリーグやプレーオフ、さらに日本選手権も入れた8シーズンの通算成績は116戦78勝35敗3分、2015年のプレシーズンと2018年のカップ戦も入れると126戦82勝41敗3分となった。
2001年に早稲田大の監督に就任し、17シーズン18年の監督業務にわたり、手厚く指導していただいたお礼と思い出話を少々、そして今後についてみなさまにお伝えしたく、今日、お声を掛けさせていただきました。
本当に長きにわたって、ラグビー界を盛り上げようと活動してきました。監督としての清宮は今日をもって、最後になりますが、今後もラグビー界を盛り上げるためにみなさんと一緒に行動していきたいと思っています。
ヤマハ発動機の監督を引き受けるきっかけとなった言葉
ヤマハ発動機の8年間、たくさんあって、持ち時間5分では語り尽くせない。これだけはということだけ話したいと思います。ヤマハ監督就任の話が来たのは2010年、リーマンショックの影響で強化を縮小し、ラグビー部員たちはレギュラーの多くが他チームへ移籍が決まり、チームは崩壊寸前でしたが、私に監督就任の打診がありました。
この背景には現在、ヤマハ発動機の会長である柳さんが新しい社長に就任するということが大きなポイントでした。会長は、ヤマハ発動機はスポーツなりわいとして大きくなった会社だ。そんな会社でスポーツをやめて会社の経営がうまくいくとは思わない。スポーツもやる。会社の事業も回復する。そのために清宮さんの力を貸してほしい——。私がいただいた言葉でした。心動きました。
さらに もう一つ もう一人、私の心を動かした男は、大田尾竜彦です。早稲田大の監督時代のキャプテンでもあった選手です。
多くの選手がチームを去る中、彼も他チームへの移籍を考えていました。他にも五郎丸、矢富といった私の教え子たちが他チームの移籍を考えていました。大田尾が「もし清宮さんがヤマハの監督になるなら、ヤマハに残る。ヤマハで清宮さんと一緒にラグビーがしたい。」この言葉は私にとって決定的な言葉でした。
心が動いて、その言葉を聞いて、その場でヤマハの監督を引き受ける決断をしました。
1年間はヤマハの監督を受けるわけにはいないので、サントリーの監督をやめてから1年間、どこにも属さない時期を経た上で、ヤマハとの契約しました。
まず、組閣をはじめました。私の両隣にいつも座っていた堀川と長谷川慎。堀川は2010年度ヤマハ監督でした。その監督に、「来年俺が監督やるから、俺の下でコーチをやってくれ」。少し異例なオファーですよね。
堀川は私にこう言いました。「清宮さんとラグビーがしたかった。だから喜んでお受けします。」
この日から、僕にとって堀川は「助さん。水戸黄門の助さん」になりました。
そして、格さんは、長谷川慎です。
彼は、サントリーの営業マンでラグビーの世界から完全に抜けていました。そんな彼に、会社をやめさせて 私といっしょにヤマハに行こうと人生の大きな決断を迫りました。
監督辞任を決めた大きな理由
監督を辞任する大きな理由の一つとして、助さん(堀川)にそろそろ黄門様になってほしいなという思いがありました。この男にしっかりとした働く場所、活躍する場所、大きな舞台を譲りたい。そう思って、数年が経っていました。
最初はヤマハのグランドにいったときに、1枚の写真を見つけました。これは2001年度にヤマハ発動機が関西リーグで優勝したときの歓喜の写真です。何とも言えない表情をしています。
俺はこういう表情とした仲間と一緒に、こういう写真を撮りたいという思いをもった。この1枚 影響と モチベーションを与えてくれました。
この写真が2001年から私が就任する2011年まで、ヤマハ発動機にはこれ以上の写真はなかった。これを越える写真は一枚もなかった。
2015年の2月に これが私の宝物になる写真ですが、多くのファンを背中に何とも言えない、日本一を取った仲間たちとの写真。これが、私のヤマハのラグビー部のすべてですね。ずっと強豪と言われる4つのチームが優勝争いを繰り返していた中に、低迷を経験した人材に恵まれず環境に恵まれず、そういったチームが4年で日本一になれると証明した一枚の写真です。
これが私のヤマハ発動機での監督として一番の仕事だったのかなと思います。やればできるものを 多くのラグビーチームに伝えることができたんじゃないかなという思いです。
この優勝から、3位、2位、3位、3位、3位とあと一歩とこの試合に勝てばトップリーグのチャンピオンと、そういうシーズンを数回重ねてきました。ここ一番で、トップリーグチャンピオンという結果は得られませんでしたが、私はそれ以上の、ヤマハファミリーという仲間を監督8年で得ました。私にとって何よりの宝物になります。
——早稲田・サントリーとは違った苦労なり達成感は?
清宮 選手たちのレベル、質はそういったものはトップチームより劣るものがありました。彼らに『ヤマハしかやらないラグビーをやりきる』という大方針、ヤマハオリジナル、ヤマハスタイルを浸透させたことがトップ4になった一番大きなポイントだったと思います。
選手たちは私の考えを100%理解してくれています日本人選手だけでなく外国人選手も。新しく契約した外国人選手たちは世界ではこうだ。SR(スーパーラグビー)ではこうだ。そういう話をする外国人選手に対して、モセ・トゥイリアリのように「おまえはヤマハでプレーしている。ヤマハスタイルでやることが、おまえのプロフェッショナルだ」と言ってくれる外国人がたくさんいたことは、ヤマハにとって大きな力になりました。
日本人選手たちは経験も実績もなくヤマハに入ってきて、ただ先輩たちが身長も低く、足も遅くても、第一線で戦うことを目の前で見ることが次の選手を育てる最高のモチベーションになるとヤマハの中のチームの人はみんな理解していました。
春、レギュラーに絡めなくても、全然あきらめることなく、やってくれるというのが ヤマハの強み、強さの秘訣かなと思います。僕のヤマハ時代の実績として、ヤマハに行けば何とかなるという、試合に出られるかもしれない。試合に出られる選手にしてくれるかもしれない、そういう、ちょっとした都市伝説的な話が学生ラグビーで広まっている。そういう選手たちがたくさんトライアウトしにくる、という事が8年間で嬉しい実績の一つですね。
もうちょっと話すと、来年160cmのHOを取りました。おもしろいですよ(笑)おそらく、身長みただけではどのチームも採用しないでしょうね。彼はヤマハらしい選手として活躍すると思っています。
選手を選ぶときの信念―それは強み、個性をもっていること。
——選手を選ぶときの信念
強み、個性を持っていることです。採用の多くがそこ。一点突破ですね。昨シーズンの開幕戦、関学出身の粟田祥平選手が先発しました。彼は関学で最高のチーム、4軍だったそうです。4軍にいた選手が、トライアウトに来て、僕の前で自分の強みを出して、ラグビー一生懸命やって採用されました。ポジションはWTB、FBです。今年、スタメンは6番です。
何が起きるかわからない。本当に選手たちの中でもそういう思いが共有の思いであって何があっても驚かない、そういう風なものがヤマハのカルチャーになっています。伊藤平一郎はHOでで入ってきて2年、3年で3番に変えました。そういったところがヤマハらしさかな。
——一点突破で選手を選ぶ理由を大事に思うのはどういうことからか。
早稲田ラグビーで育った人間だからかなと思います。素材に劣るものが、いかにして恵まれた体格の選手に勝つか ずっと考えていく、そういう思想を、たった4年しか在籍しなかったですが学んだ、常にそういう思考回路をしています。
ヤマハで本当に大学生のトップがヤマハに来てラグビーをしてくれれば、そういう思想にならなかったかもしれないが残念ながら、そういった選手はヤマハに来ないので自分たちで作っていく。それができる土壌がしっかり揃っていると思います。
——静岡県磐田市という地方都市でチームを作った難しさ、やりやすさ、やりがいを教えてください。
私が8年間いて感じたのは、メディアとの近さ。地元の新聞社、TV局、記事を非常に細かく、頻繁に県内のファンたちに届けていただけています。東京、都市圏のチームにはまずありえないことです。ファンへの情報の浸透度が一番の強みかなと思います。弱みはたくさんありますけど(笑)。地方のチームの方が、ファミリーを作りやすいのではと、この8年で思いました。
——限られた環境、人材で勝つための思想や考え方とは
熱いチームを作って、競争を激しく、独自性を持って、熱い、強い言葉でチームを率いる。この4つのイメージですかね。そこにはブレはないです。自分たちが考えたプレーを他チームがまねして スタンダードになったら それを止める勇気。やらない勇気を持っています。
トップリーグのチームは、ヤマハの得意なプレーを『ヤマハ』と呼んでくるチームはあります。そうなったら『ヤマハ』のサインを捨てて違う動きをするでしょうね。スクラムに関してもそうです。ヤマハのスクラムというオリジナルがスタンダードになりました。その結果、ヤマハと全く同じようにコピーしたので、そろそろ違うスクラムを組みにいくかなというのが考えるのかヤマハの文化として残すことができた。
——慎さんのスクラムがジャパンのスタンダードになった
こんな嬉しいことはない。自分たちがつくったものが、日本のスタンダードになった。誰に影響を与えたか、ヤマハの選手たちに影響を与えたんです。ヤマハのプライドだったり、絆が生まれた。それによって、ヤマハはより一段強くなりました。
——静岡のファンへ
私が初めて磐田の街、車で降りたとき、サッカーとトンボの街という看板が見えました。その看板に「サッカーとラグビーとトンボの街」にしようと宣言しました。今はラグビー入っています。十分、ラグビー文化が根付いた証拠の一つかなと思います。私はヤマハの監督を辞任しますが これからもヤマハのラグビーと関係を持ち続けますしこれまであまり会話できなかったファンも、もっと会話がしやすくなる。観客席でヤマハの試合を一緒に見ることもあるでしょうし、今後ともよろしくということで。
斉藤健仁 スポーツライター。1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。印刷会社の営業を経て独立。サッカーやラグビー等フットボールを中心に執筆する。現在はタグラグビーを少しプレー。過去にトップリーグ2チームのWEBサイトの執筆を担当するなどトップリーグ、日本代表を中心に取材。 プロフィールページへ |